人が人を評価するのは難しい。評価する側に「公」があるかが問われる。
組織を運営するうえで「信賞必罰」は欠かせない。やるべきことをやった者は賞し、怠った者には相応の処遇を下す。公平であるからこそ、組織は秩序を保ち、人は従順になれる。しかし、評価というものは実に厄介である。
人は自分に都合の良い評価には素直であり、反対に、自らの意に沿わない評価を受けると、途端に反発し、心を閉ざしてしまう。人間とは、実に感情の生き物なのである。だが、評価する側もまた人間である。
だからこそ私は思う。評価する側には「公平性」が何より必要だと。私情や感情が入り込んだ瞬間、評価は壊れる。「好き嫌い」で人を動かせば、組織は必ず歪む。だから私は、評価の基準は私のもの”ではなく、“公のもの”でなければならないと常に自らに言い聞かせている。
一方で、評価される側にも視点が必要だ。自分がどう見られたかだけに気を取られていては、所詮は「見られる側」から抜け出せない。大切なのは、評価の内容を素直に受け止め、何ができて、何が欠けていたのかを冷静に見つめる力だ。
これは簡単なようでいて難しい。人は誰もが自尊心を持ち、心のどこかで「自分はもっとやれる」「正当に評価されていない」と感じて生きている。その自尊心が邪魔をするのである。
しかし、ここにこそ大きな成長の入口がある。私は、これまで多くの同志、幹部、若手を見てきたが、伸びる人にはある共通点がある。
それは、評価に不満を言う前に、まず「自分の足りないところを先に探す」姿勢である。謙虚とは「自分を低く扱うこと」ではない。自分を正しく見る勇気のことだ。
自分の足りなさを受け入れた瞬間、人は一気に成長を始める。反対に、「自分は正しい」「自分は評価されて当然だ」と思い込んでいる人は、評価がどうであれ、前へ進まない。評価とは、上司の機嫌でもなければ、出来事の偶然でもない。自分が歩んできた道の結果ある。
この厳粛な事実を、どれだけ素直に受け止められるか。そこが人生を分ける。信賞必罰は、単なる組織運営の原則ではない。人々の努力を讃え、不正を正し、人を育てるための道具であり、同時に、私たちが「公正であろう」と心に誓うための戒めでもある。
最後に、ひと言。「人は罰で従わず、希望で動く。公を貫き、未来の賞を示せ」そして、評価される側はこう思えばいい。「評価は鏡である。映った姿を憎むな、映し出す原因を探せ」これが、私の考える信賞必罰である。Goto


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