にこやかな微笑みに慈愛の心が沁みる。
私の本籍地は、岐阜市から車で北に約50分(トンネルが三か所も掘られ道路事情が良くなり)。
静かな山合い(山間僻地)。人口が約2000人、岐阜県武儀郡洞戸村字市場790番地でした。
でした。と、申しますのは、平成の合併で、洞戸村が関市に編入されたのを切っ掛けに、墳墓の地から本籍を移すのには抵抗があったのですが、岐阜市内の現住所に移したからです。
親父殿が、中学を出ると、岐阜の高校に、東京の大学にと故郷を離れ、終戦後、地元新聞社に就職、岐阜市に定住しましたので、私は洞戸村には一度も住んだことはありません。
親父殿は「私有財産を持つべきではない」との思想を持っていましたので、公営住宅の仮住まいで一生を過ごしました。そのせいだと思うのですが本籍は洞戸村のまま。で、私もそのままだったのです。
しかし、子供の頃は、親父殿の母親代わりの姉さん(伯母)が洞戸で旅館を営んでいて、毎週土日は洞戸村で過ごしました。山間の村は川に沿って集落が点在します。
板取川の川辺に立ちますと、その頃、川辺で遊んだ記憶が鮮明に蘇ります。
最近、とんと御無沙汰だったその洞戸村に、遠来のお客様を案内しました。
あるべき筈の木工工場が老人施設に変わっていたり、道路が異常に整備されたり、結構、村は様変わりしていましたが、中心街のたたずまいも、山並みも、まったく変わっていませんでした。
その洞戸村の北端に海抜1200m白山信仰の霊山と呼ばれる「高賀山」があり、その麓に千年近い歴史を持つ「高賀神社」があります。
前置きが長くなりましたが、その境内に、「円空上人」のミュージアムがあります。
円空さんは、岐阜の生まれといわれ、ノミとナタを手に全国を行脚、封建社会に苦しむ民衆に仏の教えを説きながら12万体に及ぶ仏像を掘り続けた人です。
なぜ、そんな山奥の神社に「円空」が。高賀神社は全国から山伏や信者が訪れ、円空上人も、この地で入定の決意を固め、最後の作品「歓喜天」を彫った、ゆかりの地だからです。
ミュージアムに入り、展示されている円空仏を眺めていますと、そのにこやかな顔に、心が洗われ、妙に落ち着くのです。ご案内した先輩は、この地は、強い霊気が漂う地ですね。と一言。
円空さんの仏像。その、どこまでも素朴な仏像。そのテーマは、「慈愛」。
そこに過ごした親父殿には確かに自愛の心があったと思うのですが。
その地の血が流れるだけの私にも、慈愛の心があるのか?問い直す、故郷探訪でした。
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円空記念館 狛犬 歓喜天 観音菩薩
※関市洞戸 円空記念館のパンフレットより
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