孤高の新聞「日本」

日本文学の改革者・正岡子規を支えた陸羯南(くがかつなん)
結核を発病、その菌が背骨を冒す脊髄カリエスを患い当時ではどうにもならない病魔に襲われ苦しみ続けた正岡子規。晩年、病床にあって狂おしいまでの文学改革に情熱を燃やし、俳誌「ほととぎす」や随筆「墨汁一滴」などに珠玉の作品を世に送り出した。
病に伏せ尚且つあれだけの作品を残した子規。誰が彼の才能を認め、支え、作品を世に送り続けたのか。勿論、子規の実家であり、看病にあたった妹であるのだが。子規は漱石に「陸氏ノ言ヲ思ヒ出スト、イツモ涙ガ出ルノダ。徳ノ上カライフテ此様ナ人ハ余リ類ガナイト思フ」と涙が滲む手紙を送り、陸羯南に感謝の意を表している。
陸羯南とは、明治22年、「此の種の新聞を名づけて独立新聞と云う」と政府や政党など特定の勢力の宣伝機関や、営利目的の新聞ではなく、自らの信念のみ立脚した言論報道機関たる「独立新聞を目指し、新聞「日本」を創刊した稀代の言論人です。
新聞「日本」は他紙に類を見ないほど頻繁に発行停止処分を受けながらも皮相な欧化政策・藩閥専制政治を批判して日本の進むべき道を示唆し続け、創刊から17年で廃刊に追い込まれました。しかし、羯南の高い理想と人徳に惹かれ日本新聞社には多くの明治後期の文豪家、思想家、後の新聞界をリードする俊英が集いました。
その中の一人、新聞「日本」の記者となり、壮絶な病苦と闘いながら、羯南の限りない慈愛に守られ、俳句や短歌などの文学革新を成し遂げたのが正岡子規でした。
勿論、私は独立新聞の歴史も、陸羯南も、そして、羯南が子規を支えたことも知りませんでした。横浜の日本新聞博物館で開催された孤高の新聞「日本」・・・羯南、子規らの格闘・・と題した展示会を見て学びました。Goto

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