新聞の衰退・SNSによる言論の自由・・新聞とは何か?
新聞命(しんぶんいのち)の私としては複雑であるが・・・
先ず以て「ご冥福を祈る」・・読売新聞の主筆・渡辺恒雄氏が逝った。
新聞各紙の渡辺恒雄(ナベツネ)氏に関する惜別の記事を読んだ。
ライバル朝日新聞・「政界の舞台裏を取材する立場でありながら「プレーヤー」も自認し、政治の重鎮議員からの信頼を得て、政治家を閣僚ポストへ推薦することもあった」・・・「中曽根康弘・安倍晋三ら歴代首相と近く権力の距離感についての批判が付き纏った」と果たして辣腕記者と評価できるのかと迫った。
巨人軍のオーナーとして球界を牛耳り、プロ野球の発展貢献に尽力したと各紙はベタ褒めだが果たしてそうか?フリーエージェント制度・ドラフト会議の逆指名などにリーダーシップを発揮したと・・現在の繁栄を築いたとも絶賛だが?巨人軍絶対主義の根底には読売新聞拡販が目的だったのではないか。
真に球界の発展に寄与したとは思い難い。
持論の1リーグ制を強引に推し進め、選手会長がオーナーらとの会談を希望したことに「無礼なことを言うな」「たかが選手じゃないか」と発言、顰蹙を買ったがそれが本音ではなかったかと思う。
読売新聞・1000万部突破(1991年)・・・巨大な発行部数をバックに「讀賣憲法改正試案」を発表、社内においても社論に異を唱える者を徹底的に排除。
「世の中を思う方向に持っていこうとしても力がなきゃできないんだ」「俺には1千万部がある」「それで総理も動かせる。政党勢力も思いのままだ、所得税や法人税の引き下げも読売が書いた通りになる。こんな嬉しいことはないわ」
「俺は最後の独裁者だ」と言って憚らぬ・・・これが果たして新聞人だと言えるのか。生涯一記者が笑わせる。
「権力を監視する新聞から」「国家と一体の新聞へ」と変換。
そこには憲法の自由・平等・絶対平和の理念などない。多様な言論と
権力のチェックが新聞の使命だとの意識は微塵も感じられない。
各紙が書かなかったことを最後に二つ申し上げたい。
一つは、渡辺氏が権力を持ち続ける間に、読売は1000万部から、
600万部台に減部になっている。読売だけではない。購読者の落ち込みによって、新聞界は存亡の危機にある。まだ経営に余力がある読売は持ち堪えるだろうが。新聞人として、新聞経営の中核に君臨して、新聞の衰退をなんとかできなかったのか。過去の威光にしがみついただけの晩年であったのではないか。
もう一つは、ネットの台頭である。昨今のSNSでの情報量は、新聞を完全に凌駕している。それ以上に新聞の報道って、ウソは書かないが、知らせないことが異常に多かったのではないか。そんな新聞の政治記事への批判が溢れている。その責任って、読売新聞にはないのか。
二つの疑問を残したまま、戦後民主主義とは何か。
新聞とは何か?大きな足跡は残したが・・・私は複雑な心境である。Goto
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