言葉

相手を敬う心を養いたい。
私には兄弟がありません。その代わり、親父殿には6人の兄弟がありました。
そのお陰で、従兄弟が17名。亡くなった人もいるが、今も兄弟以上のお付き合いがあります。
親戚とは有難いもので、冠婚葬祭には声を掛け合い、励まし合うことができます。
親父殿の兄弟に長崎で暮らす人がいて。随分、前の話ですが。その従兄弟の結婚式に呼ばれた折。
本島という、稀代なる長崎市長が来賓で臨席。そうです。天皇の戦争責任を問うて、銃撃されたあの市長です。事件直後だったと思います。彼の祝辞が今でも耳に残ります。
「殴ったり、銃弾を放ったりするのも暴力だが、本当の暴力は言葉です。結婚する若い二人。肉体に受けた暴力は時とともに癒すことができますが。言葉が放つ暴力は、相手の心に永久に残ります。相手を思いやる心があれば、言葉の暴力は放たないものです。ぜひ、言葉を大切にする家庭を築いてください」そんな、体験を踏まえた人生訓でした。
人は時にして、感情の高ぶりで、言わぬもがなの、暴言を吐くことがあります。理性に乏しい私などは、興奮しますと、ついつい、相手の心をえぐる様な酷い言葉を発します。
そんな、折に、必ず後悔の念に苛まれながら、
本島元市長の、この祝辞の一説を思い出し、反省します。
人生は出逢い。出逢いがその人の人生を根底から覆すことがある。出逢いを大切に。とは、部屋の壁に貼ってある一文です。昨夜、新しい出逢いがあり、多くのことを教わりました。感謝です。
その会話の一つに、外資系企業の日本法人トップの彼曰く、日本でコミュニケーションと言えば「言葉を交わし信頼関係を深めるために」必要なもの、だと解釈されているが。
アメリカ人は「コミュニケーションとは相手を説得することだ」と考えている。
自分の意見を相手が聞きいれ納得してくれることがコミュニケーション。だと。
なるほど。そう教わると、コミュニケーションは、論戦の場。
意見を持たないものはコミュニケーションができないということになります。
意見を持たない人は、コミュニケーション能力がないのだから、乱暴な言葉や思いやりのない暴力的な言葉を使って、相手を傷つけることで、自分をごまかす。ことにもなる。
アメリカ人のコミュニケーションとは相手を納得させること。
本島元市長は言葉の暴力ほど恐ろしいものはない。と言う。
どちらも、自分の意見を持ち。相手を敬愛する心が根底に必要だと説いてる気がします。
そういえば、久しく長崎の従兄弟とも、ご無沙汰している。
今日にも、言葉を掛けてみようかな。
新しい兄弟との出逢いに感謝して。        Goto

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