ジャパン・オープン

岐阜関カントリー倶楽部、開場50周年に思う・・・・
私がゴルフのホームコースしている岐阜関カントリー倶楽部が、この6月で開場50周年を迎えた。今日は記念式典とコンペがあり参加する。W杯の日本代表対コートジボワール戦を観戦することが出来ない。残念ではあるが、ゴルフを優先したい。
私にとって岐阜関CCはプレーを楽しむ以上の因縁がある。オープン当時の話である。関CCを作ったのは岐阜日日新聞社(現・岐阜新聞)である。親父殿は新聞社の取締役事業局長としてゴルフ場建設の責任者だった。
建設の際、最大の難関は、地権者でも地元の有力者との関係でも、勿論、今ほど開発が規制されている時代ではないので許認可に苦労することもなかったが、ゴルフ人口が建設費を賄うには不足しているという会員権が売れないことであった。(ゴルフブームが到来するのは開場後)
結果的には、新聞社の威光・・・ペンの力というのか、暴力というのか・・・で、隆盛を極める地場産業、既製服産業に従事している中小企業の旦那衆などに、会員権を押し付ける形で、資金を捻出、地元の中堅ゼネコンにも無理を強いり、開場にこぎつけた。(勿論、結果的は高度成長とともに、ゴルフ会員権の相場もうなぎ上り、会員は富を得たのだが)
ゴルフ場は、親父殿の発案と聞いているが、当時としては画期的。二棟の合掌造りの家を飛騨地方から移築、宿泊、飲食の施設を併設、遊園地、プール(日日ガーデンと称した)なども設け、お父さんはゴルフ、お母さんと子どもは・日なが日日ガーデンでゆっくりする。リゾート風のゴルフ場が誕生した。
だが、人手不足だったのか、コストを掛けることができなかったのか?いきさつは分からないが。オープンが近づくと、専業主婦で内職にミシンを踏んでいた母が、突然日日ガーデンで働くことになった。そのための車、マツダのファミリアが届いた日を今でも憶えている。
それから50年。その画期的だった岐阜関CCも・・関連施設壊され練習場となり、コースは西東の36ホールとなり。男子の日本プロ選手権、女子のジャパンオープン、女子の日本プロ選手権など国内メジャー大会を開催し、ゴルフ場として年輪を重ねてきた。
今日の式典ではチャーターメンバーの表彰と50周年の記念事業として17年にジャパンオープン開催が発表されるが、親父殿が存命ならば、なんと思うだろうか。Goto

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