改めるに憚るなかれ

過ちは恥ではない。改めぬことこそ、恥である。

いきなりですが、「過ちを改むるに憚ることなかれ」。この言葉に、私は幾度となく救われてきた。『論語』にある孔子の教えである。人は誰しも過ちを犯す。しかし、「それを改めないことこそが、本当の過ちである」

まことに耳の痛い言葉だ。ボンクラな私は、これまでに何度も恥ずかしい思いをしてきた。思い込みで判断を誤り、言葉が先走り、後で冷や汗をかく。
だが、そんな時こそ、この教えが胸に響く。

先日も申し訳ない経験をした。
人間、誰もがそうだが、集合写真を見るとき、まず自分を探す。まともに映っていれば、何の問題もないのだが。目を瞑っていたり、横を向いていたり、ましてや自分の姿が写真から切れていたりすると、不愉快になるモノである。

ましてや、公の場所で名前を間違えられたりすれば、ご本人にとっては許し難い。誰でも名前はその人そのモノ。間違えるってことは、その人の人格を傷つけることになる。「私の事をちゃんと理解していない」と思われて仕方がない。
私は間違えてしまった。お詫びしてもしつくせぬ。

大概の人は、その場で気づいて、改めてれば、許してもらえるのだが、
思い込みの間違いはそのまま時が過ぎてしまう。

誰かが、指摘してくれれば、「申し訳ありませんと訂正、私の間違いでした」と言えるが。そのまま過ぎてしまえば、禍根が残る。そうなると、改めることもできない。そんな時どうするか?人間には誤りはつきもの。

あいつは誠実なやつだから、許してやると思ってもらえるような、
生き方を日頃からしていなければならない。
その誠実さが、人と人の間をつなぐのだから。

少なくとも、共に働く仲間たちの間で、あいつは、素直な奴で気付けば、改めると思われていなければあかん。日頃から、誤りがあれば、誰かのせいにせず、自分の言葉で説明する。小さなミスも隠さず共有し、再発を防ぐ仕組みをつくる。
そうすることで、互いの信頼が深まる。

「間違いを恐れるより、正さぬことを恐れよ」――これは、立場や肩書きに関係のない、働く者の基本姿勢だと思う。過ちを認めることは、恥ではない。
むしろ、人としての修養であり、成長の入り口である。

先哲はこう言っている。
「過ちを恥じるは善なり。改めぬを恥じぬは、愚なり。」
この言葉を胸に、今日もまた、反省と挑戦を繰り返す。
ボンクラな私の人生は、過ちばかりだが、そのたびに少しずつ、
ましな人間に近づいていけるのではないか。――そう信じている。

秋風に 過ちひとつ 吹き流す・・・Goto

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