酒の嗜みと、ボジョレーをめぐる私の長い寄り道について語ろう。
20日、今年も「ボジョレー・ヌーボー」が解禁された。味わいましたか? 私はまだである。なんでも今年は太陽に恵まれた“当たり年”。輸入元の担当者は胸を張るが、現実は円安と輸送コストの高騰で採算が合わず、大手も輸入を見送ったという。あの騒ぎが始まって20年、どうやらブームは息切れしたようだ。
思い返すと40年前、イスラエルからの帰途、ドゴール空港でトランジットをしていた深夜のこと。突然、空港中がヌーボー解禁でざわつき始めた。ワインの“わ”の字も知らない私は、白ワインが上等だと信じ込み、免税店に走り「白のヌーボーを飲ませて」と店員に言ってしまった。あの侮蔑の目。パリジェンヌに笑われ、「ヌーボーは赤よ。ボージョレ地方でその年に収穫されたブドウからつくる新酒のことよ」と諭された。赤っ恥とはあのことだ。しかも飲んでみれば、渋い、薄い。美味いとは言い難い。
なのに20年後、日本にワインブームが来た。「ポリフェノールが身体に良い」などという、科学なんだか宣伝なんだかわからぬ理屈が横行した頃だ。安いワインを飲みすぎて体を壊すヨーロッパの人々を見れば、そんなわけあるかと笑いたくなるが、人は“健康に良い酒”という言葉に弱いのである。
その後、飲料メーカーが本気でワイン商売に乗り出し、ボージョレヌーボーの大ブームが起きた。したり顔で蘊蓄を語り、解禁日の深夜に飲むのが“粋”だと思っていた自分を思い出す。しかし本音を言えば、味はやっぱり淡泊で渋いだけ。やはり酒は日本酒に限る、という思いは当時もいまも揺るがない。
「今年は深みがある」販売担当のソムリエは言うが、それは輸入担当者の“商魂”も入っているだろう。そりゃ仕入れた分が売れねば困る。若いワインが売れなくなったのは、ワインを本当に嗜む人が増え、“熟成の味わい”を知ったからだろう。何事もそうだが、深みとは時間が育むものだ。
日本でもワインづくりが盛んになり、ワイナリーはこの8年で280ヵ所から500ヵ所超へ。世界のコンクールで高評価を受ける日本ワインも登場した。素晴らしい。しかし心配なのは、原料となるワイン用ブドウの栽培環境である。高齢化と温暖化で耕作が難しくなり、このままではブドウを輸入するようになりかねない。地元のブドウで造られないワインに、はたして“日本ワイン”の誇りはあるのか。地ビールもウイスキーブームも経験したが、酒とは土地と風土の文化そのものなのだ。
だが、私は悲観しない。酒文化は廃れぬ。どれほど時代が移ろおうとも、人は杯を交わしながら人生を語り、感謝し、夢を見る。酒は人間の文明そのものだ。
最後に、若者よ、ひと言。
酒を飲もうじゃないか。人生の苦味も甘味も、酒があればすべて味わい深くなる。無茶をしろと言っているのではない。旨い酒を旨いと感じる人生を歩め、と言っているのである。(体質的に飲めない人にはごめんなさい)
60年近く、あらゆる酒を愛し楽しんできた私の結論はこうだ。「酒なくてなんの己が命かな。されど、酒は節度と品と、そして笑いとともに。」である。
若者よ、さぁ一献。人生は思ったより短いのだ。おおいに飲み、よく働き、よく生きようではないか。Goto


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