美輪明宏とは

戦後の灯りがまた一つ消えた。

一人の時代が終わった。
歌手、俳優、演出家として唯一無二の存在だった美輪明宏さんが九十一歳で逝去された。新聞各紙は一斉に評伝を掲載し、生前に自ら記した言葉を紹介していた。

「こんな世の中を生き抜く武器は愛と言葉しかありません。この世のすべての問題を解く鍵は愛です。愛があれば戦争なんか起こりません。」何度も読み返した。被爆者だからこそ、この言葉は軽くない。

十歳の夏、長崎で被爆。爆心地から約三・六キロの自宅で閃光を浴び、外へ出ると全身に大やけどを負った人々とすれ違った。学校の運動場には焼け焦げた遺体が並び、その光景は生涯忘れることができなかったという。「思い出すのはつらい。それでも語るのは、生き残った者の責務だから」。その生涯は平和への祈りそのものだった。

テレビでは代表作「ヨイトマケの唄」が流れていた。土木工事に汗を流す母親への感謝を歌い、重労働に耐える人々の尊厳を高らかに讃えた名曲である。

私の母もまた、戦後、毎日ミシンを踏み続けて家計を支えてくれた。近所の友人の親たちも土木作業や工場で泥にまみれ、汗にまみれ、家族のため、日本のために働いた。その積み重ねが焼け跡からの復興となり、高度経済成長へとつながった。

ところが、この歌は「土方」という言葉が放送コードに抵触するとして長く放送が敬遠された。しかし、美輪さんが伝えたかったのは差別ではない。社会を支えた無名の労働者への限りない敬意である。言葉だけを切り取り、本質を見失うことほど残念なことはない。

私が丸山明宏さんを初めて生で拝見したのは、銀座・銀巴里だった。六十年近く前、田舎から上京したばかりの青年には、シャンソンを歌うその姿は衝撃だった。美しさとは何か。芸術とは何か。人間とは何か。その問いを全身で表現していた。

丸山明宏から美輪明宏へ。改名は、親交の深かった三島由紀夫が市ヶ谷で割腹自決した後である。三島は盾の会を率い、自衛隊に憲法改正と自主防衛を訴えて命を絶った。

その壮絶な死を見届けた美輪さんは、自らの生き方を見つめ直し、「美」を冠した新しい名とともに、武力ではなく芸術と言葉、そして愛によって人間を変えようとする道を歩み続けたと語っている。

戦争を知る世代がまた一人去った。
美輪明宏さんが遺したものは、歌でも舞台でもない。「愛がなければ平和は訪れない」という一つの信念である。

団塊の世代として、私もまた戦後日本の復興を支えた親たちへの感謝を忘れず、汗して働くことの尊さを次の世代へ伝えていきたい。
美輪明宏さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。Goto

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