名選手、必ずしも名監督にあらず。

若者の志を、大人の都合で曲げないで欲しい。

10月20日の私のブログ「青春の志を世界へ」で、横浜高校、織田翔希投手の米国挑戦への
思いを取り上げました。「世界一の投手になりたい」そのために、高校から直接米国にわたる。若者の大きな志に私は拍手を送りました。

ドラフト会議前に、15日進路表明したのは、日本の球団には使命を控えてほしいと言う意思表示でもあった。私はそう受け止めました。しかしそのブログには1つの懸念も記しました。
「それでも巨人は1位指名に踏み切るのではないか」、と。

残念ながら、その懸念は現実になりました。巨人は織田投手を1位指名。そして翌日には松井秀喜氏の監督就任が発表されました。この流れに、私はどうにも釈然としないものを感じています。

そもそもドラフト制度には、割り切れない思いがあります。本人の希望とは別に、球団が選手を指名し、交渉権を得る。入団を断る。自由があるとは言え、人間に札をつけて取り合うように見え、時に人身売買を連想させる。その感覚が私は嫌いなのです。戦力の均衡を図る趣旨は理解できます。しかし、球団同士の公平と選手にとっての公平は同じでしょうか。これしか方法は無いのか、問い続けるべき問題です。

そこへ松井さんの登場です。その名声と人気を背に「巨人へ入るのが1番だ」と言う空気がつくられていかないか。本人の決意よりも、球団の思惑と世間の期待が優先されないか。穿った見方かもしれません。しかし1人の若者を取り囲む大人の力の大きさを思えば、見過ごせません。

松井さんは偉大な選手でした。しかしその名前だけで常勝巨人が生まれるとは思いません。
「名選手、必ずしも名監督にあらず」自分が結果を出す力と人を育て、組織を率いる力は別です。その力量はこれからの仕事で問われます。

最初の試金石が織田投手への向き合い方でしょう。巨人で育つ道を提案することには意味があります。しかし提案と圧力は違います。本人が断ってもその決断を尊重する。それがあって初めて正義ある交渉と言えるのです。

人間学の根本は、相手を1人の人格として尊重することです。才能を欲しがる前に、その人間の志に耳を傾ける育てるとは、自分たちの望む場所へか囲い込むことではありません。本人が選ぶ人生を大切にすることでしょう。

新聞をこよなく愛する私だからこそ、新聞の盟主・読売という新聞社を背に持つ球団には厳しく問いたい。もし報道の影響力までが入団を促す空気作りに使われるなら、それは応援ではなく、大組織の傲慢です。メディア権力の横暴です。そこにスポーツの清々しさはありません。

「世界へ羽ばたけ」と励ましながら、いざ羽ばたこうとしたら、引き止める。
それでは言葉が泣きます。球団の伝統も、スターの名声も、1人の若者の人生より重くはない。織田投手の未来は、織田投手自身のものです。今後どうなるのか注視していきたいと思います。Goto

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