読まれぬ新聞

しがらみと圧力の商売は通用しない。
昔の話です。昔といっても大昔。30年以上前。二十代の頃です。
一時期でしたが、日本社会党岐阜県本部、岐阜総支部専従書記の時代です。
肩書きはいかめしいが、やっていたことは、大したことではない(いい加減なものだった)。党員の管理、よろず相談窓口。定期会議などの準備、各種運動(メーデーとか。原水禁とか。地方選挙の応援)の手伝いと参加。
それに、機関紙、社会新報の週二回の配達。火、木曜の朝、国鉄岐阜駅で集配。それを労働組合のある職場や岐阜市内の支部(余りありませんでしたが)に順次配布する。それが済むと、帯封で新聞を巻いて郵送。全部で1500部ほど。
その頃の悲しい思い出ですが、ある国の出先機関では、労組の圧力で、管理職が義理で社会新報を購読している。「こんちわ、社会新報です」と、机の上まで届ける。そこに座っているのに、見向きもしない。無視です。
次の机に移ると、後ろで「ポトン」と音がする。怖くて振り向けなかった。なぜなら、開きもせず、勿論、読みもせず。足元のゴミ箱に捨てる音だから。「この野郎!」との思いを、我慢して部屋を出たもの。
しかし、その読者達の購読料が貴重な財源。活動費を賄っていたのですから、貧乏政党の書記(いやいや新聞配達要員)としては、悔し涙を流す以外になかった。
読まれる新聞を作らねば価値がない。と、その都度意気込んで、悔しさを、中央本部の編集局にぶつけたものだが、無しのつぶて。広報がこれでは。この党は、だめだなと、思ったものです。
大阪の橋下知事。行政の無駄改革の一例。朝公用車が迎えに来る。座席に五紙の新聞が揃えてある。半分も読まずに、知事室に入ると、また、新しい新聞が五紙置いてある。
こりゃ無駄じゃないかと、府庁内で購読している新聞・雑誌などの定期刊行物を見直したら、年間で八千万円削減できたと。(あまりの額に嘘じゃないかと疑うのですが?)
新聞は「行政の無駄遣いをなくせ」と声高に訴えるが、一番簡単なのは、役所に売り込んでいるムダな新聞を自ら身を削って減らすこと。そうすれば、全国の行政で、百億円単位で削減できるはず。と言う。
そういえば、社会新報の岐阜県庁への配達、多分、だれも読まなかったであろうが、すべての課(集積ポスト。今も県庁の1階入り口にある)に投げ込んだ。購読の背景には、社会党県会議員の圧力としがらみがあった。
日刊紙の記事は、職員の貴重な情報源。社会新報のように内容に価値がないのとは違う。しかし、新聞社が、行政に過度なムダを強いているとしたら、橋下知事の「こう言うとまた嫌われ、新聞でたたかれると思うが」との一言が重く圧し掛かる。
広告屋としては、新聞の購読数が減るのは死活問題で困る。
かと言って、行政のムダが放置されるのも、困る。
やはり、中身(記事)で勝負するしかないのか?それとも、しがらみや圧力を、新聞社自らが吹っ切って、新聞のビジネスモデルを変える策を講じるべきなのか?
新聞命の私としては、悩ましいところだ。
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