衆参ねじれは、二大政党が政権与党ではないのか?
今日が決勝。甲子園の熱闘が終れば、もう、秋はそこまで。開けっ放した窓からは、虫の音も。ゆく夏を惜しむのだが。夏の喧騒をもっとも懐かしむのは、民主党政権終焉を待つ政治家達であろう。この秋冬は政局の季節なろうから。
田舎のおっさんの見立てなど、どうでも良いのだが。私は未だに年内解散・総選挙はないと思っている。理由は大義名分がないからである。迫る自民党の主張は、民主党政権の未熟さである。果たして未熟であることが解散に値するのか?理解できない。
では、自民党に政権担当能力があるのか?と、問えば。国民の大多数が、今の顔ぶれで?民主党以上の未熟さを克服できるとは思えない。混迷と緊迫が交差する時代。よりましだからでは、とても、政権を任せることはできない。
選挙争点だが。民主と自民、二大政党は国家観を含め、政策の違いを明らかにすることはできないのではないか。いたずらに違いを際立たせても、所詮は、「戦後民主主義」の亡霊の虜。ポピュリズムから脱却することはできぬ。
衆参ねじれの状態は、二大政党に政権があるのと同じ。だとすれば、来年の夏まで、任期いっぱい、与野党が、直面する課題に真摯に取り組み、合意できるものは合意し。できないものは、選挙の争点にすればよいのではないか。
例えば。原発。経産大臣は「出来るだけ早くゼロにした方が良い」と発言しながら、日本メーカーによる原発建設が内定しているベトナム訪問の際には「原発の新規導入に必要な制度づくりに協力する」ことに合意するなど、自己矛盾を露呈している。
民主党政権の閣僚が、信念と現実の狭間で苦悶している姿が浮き彫りになっている。
私は、それで良いと思う。その苦悶が現実であり、現実政治の姿なのだから。しかし、いつまでも、そんな軟弱な政治姿勢は通用しない。
重要な問題には、政治家自身が旗色を鮮明にして、総選挙に望むべきであろう。それが、戦後民主主義からの脱却であり、この国の未来を決することに繋がる。
9月号の文藝春秋。特集で、日本人の「最後の選択」橋下維新・すべての疑問に答えると題して、維新の会のブレーンである堺屋太一氏が、姿勢や考え方など、国政で何を為そうとしているのかを、丁寧に語っている。
私は、それを読んで、維新の会が、メディアに乗った浮ついた集団ではないとの認識を深めた。二大政党には、この秋冬を政局にしないで、維新の会の選択を越える・・・現実政治から導き出された、腹の座った大義を提起して欲しい。
残された任期はまだあるのだから。Goto
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