引き際・・・

老害が跋扈するテレビ界の病巣が表面化した・・・

文藝春秋・9月号。フジサンケイグループ日枝久前代表が、ノンフィクション作家・森功氏のインタビューに応じた。なぜ、文藝春秋に重い口を開いたのか
「文藝春秋と週刊文春とは違う。僕は高校生のころから愛読してしていて信頼できる雑誌だと思った」・・・同じ会社の出版物です。こんな風に思うのかと日枝って人に首を傾げたのだが・・・独占告白10時間インタビューを読んで思う。

「晩節を汚す」という言葉がこれほど相応しい人物も珍しい。
FHDの日枝久前代表のことである。彼は40年の長きにわたり、社長・会長・時には相談役という形で権力の座に居座り続け、人事権を操り、関連企業の隅々まで影響を及ぼしてきた。その支配構造は、一企業の経営という範疇を超え、マスメディアの公共性を私物化したにほかならない。

ノンフィクション作家・森功氏のインタビューに答える日枝氏の言葉には「傲慢と自己正当化」が目立ち、トップとして責任者として責任感の欠片も読み取れなかった。私はなるほど、メディア権力というものは、このような老害を生み出すものかと学んだ。

人には必ず引き際がある。権力の座についてから何度も退く機会はあったはずだ。だか彼は一度も退こうとしなかった。権力にしがみつき、組織を硬直させ、今日のフジを招いた張本人である。改めて認識した。

かつては「楽しくなければテレビじゃない」と叫んだフジ。
視聴率の王者から転落、社会からの信頼も失った。その原因を現場の努力不足や外部環境に押し付けるのは簡単だが、(彼はインタビューでそう言っている)
真の元凶はトップの長期独裁にある。時代の変化に合わせて刷新すべき経営陣が、日枝氏の手によってたらい回しにされた結果、フジは笑いものとなり、糾弾される存在にまで落ちぶれた。

これこそが「老害」である。かつての功績を盾に居直り、変化を拒み、若い力を潰し、組織全体を沈滞させる。しかもその自覚が本人に全くない。森氏の問いかけに対し、日枝氏が見せたであろう薄ら笑いは、日本のマスメディアが抱える構造的病を象徴しているのではないか。公共性を弄び、権力者と結託し、視聴者よりも権力維持を優先した、その罪は重い。

だが、一方で、日枝氏が表舞台から排除された後のフジは、わずかにではあるが希望の芽が見える。バラエティ頼みから脱し、社会派のドラマや硬派な番組作りへ挑戦する動きが出てきている。視聴率だけを追う時代は終わり、テレビに求められるのは社会への問題提起であり、人間の尊重を描き出すことである。フジがその原点に立ち返ろうとする姿勢は高く評価したい。テレビは「面白さ」だけでは成り立たない。真に面白いとは同時に深く、鋭く、問題を投げかけるものだからだ。

私は視聴者の一人として、フジのこの変化を歓迎したい。
日枝氏を象徴とした「老害支配」が終焉を迎え、フジが本来持つ創造性と挑戦心を取り戻すことを切に願う。晩節を汚した権力者が去ったあとに芽吹く新しい挑戦こそ、テレビを再生させる道である。新生フジに期待する。

同時に、この一連のフジ問題は、老害の跋扈ではあるが、CMを取りやめ、復活したスポンサーにも、業界慣習と称して我欲を蝕んだ広告代理店にも、テレビの魔力に己を見失った芸能人も、社員たちにも重い責任があることを付加したい。Goto

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