団塊世代・沢木耕太郎さんの長編時代小説「暦のしずく」
小中学生・夏休み残り日数が少なくなって、
宿題の読書感想文を書かにゃあと焦っているわけではないが、
私も一つ書き留めておこう。
沢木耕太郎さんの朝日新聞に2年にわたり土曜別刷り「be」に掲載された
長編時代小説「暦のしずく」を読んで。沢木さんといえば、ノンフィクション作家・エッセイストとして知られ、旅のエッセーには定評がある。
新幹線の雑誌でいつも楽しませてもらう。
「知るを知るとなし
知らざるを知らずとなすこれ知るなりとある」 (論語・為政第二)
江戸中期の講釈師・馬場文耕の物語。彼についての記述は少ない。
沢木さんの作風はフィクションのように読ませるノンフィクション。
事実を織り交ぜながら、複雑な構成の中にもリズムが軽妙で、
読者を物語の中に静かに引き摺り込む。
文耕は「人は人の全てを知ることなどできはしない。だから知っていることは
知っていると、知らないことは知らないと認めることができれば、それをこそ
それを真に知っていると言ってよいのではないか」・・講釈の有り様に悶々としながら。市井の人情に講釈を求め、そして幕藩体制の矛盾に切り込んでいく。
沢木さんの文章は説明をし過ぎず、読者が自分の経験や感情を重ね合わせられる余白を残している。そこに沢木文学の真髄がある。「暦のしずく」ではなぜ、講釈を続けるのか。講釈師の光と影を追い求めながら・・一介の講釈師がなぜ、厳罰に処されなければならないかを突き詰めていく。
馬場文耕の句「美濃笠濡らす森の雫」には美濃の山あいに降り注ぐ雨が、森の木々を伝って雫となり、農民の傘を濡らしていく情景が浮かぶ。郡上おどり「かわさき」の「ぐじょのなぁ〜はちまんぁ〜んでていくとき〜わ、あめもふら〜ずにそでしぼる」・・・情景が浮かぶ。
厳しい自然環境の中で生きる人々の姿、さらには一揆を起こさねばならない、どうしようもない憤り。それでも「苦難に耐えながらも生き抜く民」その心象風景に思いを重ね合わせて読み進すめば。しんしんと落ちる森の雫が郡上の山里に暮らす人々の営みや祈りを包み込む山間地「郡上」の情感が湧き上がる。
小説はNHK大河ドラマ「べらぼう」を彷彿とさせる。田沼意次が、吉原の風景が、そして出版物が、まるで蔦屋重三郎が馬場文耕と友であるかのように登場する。文耕の耕は沢木耕太郎の耕ではないかふとそう思いながら・・
実に面白い時代小説を楽しませてもらった。
野越え山越え 里うち過ぎて
来るは誰ゆえ 其様ゆえ
誰ゆえ誰ゆえ 来るは
来るは誰ゆえ 其様ゆえ
君恋し 寝ても覚めてもさ
忘られぬ わが思ひ わが思ひ
こんな感想文ではねぇ。Goto
コメント