熊と人の境界線

——里山の倫理を取り戻せ——

熊が止まらない。
岐阜の白川郷で観光客が襲われた。世界遺産の合掌造りの村にまで出没するのだ。もはや、熊は「山の奥の生き物」ではない。人の生活圏のすぐ隣にいる。観光客の悲鳴が秋風に消えていく。なんとも痛ましい。ショックだ。

全国で熊による被害が相次ぐ。被害と言うより、殺人事件だ。農作物を荒らし、民家に侵入し、ついには人を襲う。熊戦争といって良い。

それでも国は動かない。地方自治体任せにし、責任を押し付けて知らぬ顔。
都心のオフィスで政策を語る官僚には、この危機感が届かないのだろうか。
「なんとかしてくれ」――地方からの悲鳴は、もはや風評ではなく、生きる叫びである。メディアの報道からそう聞こえる。

熊と人の境界線が、いまや曖昧になっている。
原因ははっきりしている。過疎化と高齢化で山の手入れが途絶えた。
かつて人が薪を取り、畑を耕し、山を整えていた「里山」は、いまや人の足音が消え、荒れ放題。そこへ熊が降りてくる。
熊が悪いのではない。人間が退いたのだ。

ならば、今こそ“里山の倫理”を取り戻す時である。
自然と共に生きるというのは、美しい言葉だが、これだけ高齢化が進んでいる。現実は厳しい。命を守るためには、勇気ある線引きと行動が必要だ。

まず第一に、山刈りの復活だ。
放置された山林の下草を刈り、人の気配を戻す。機械でも人力でも構わない。人が動く音、働く姿こそ、最強の熊よけだ。国策として林業と連携し、地域雇用にも結びつけるべきである。農水省に腹はあるか?

第二に、生息域の線引きを明確にする。
全国規模で生息状況を把握し、衛星データやドローンで“熊マップ”をつくる。
どこまでが熊の森で、どこからが人の里か。曖昧だからこそ、悲劇が繰り返される。環境省がやる。

第三に、掃討作戦の是非を議論せよ。
聞こえは乱暴だが、命の問題だ。
出没が頻発する地域では、一時的な個体調整――つまり集中的な駆除も必要だろう。
感情論ではなく、科学的管理である。ヨーロッパでは既に実施され、共存の仕組みを築いている。

共生とは、ただ「優しく見守る」ことではない。
自然の理を理解し、人間の領域を守り抜く覚悟のことだ。
熊の被害が常態化する日本に、観光立国も地方創生もありはしない。

熊と人の境界線を引き直すこと――
それは、自然と人間の新しい関係を築く第一歩である。
このまま手をこまねいていれば、次に狙われるのは“人間の誇り”そのものだ。政治家が、官僚が熊戦争を宣言せよ。Goto

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