みどりの日、ゴールデンウィークについて検証する。
「なぜこの日が祝日なのか」。そう問われて、明快に答えられる人は多くないでしょう。実のところ、私自身も長らく腑に落ちない思いを抱いてきました。今もですが。
そもそもの起点は4月29日、昭和天皇の誕生日です。崩御後、この日は「みどりの日」とされましたが、その趣旨は「自然に親しみ、その恩恵に感謝する」という、どこか抽象的なものでした。そして2007年、祝日法の改正により4月29日は「昭和の日」と改められ、昭和という時代そのものを顧みる日に再定義されます。
では、それまでの「みどりの日」はどうなったのか。ここで登場するのが5月4日です。この日はもともと、憲法記念日(5月3日)とこどもの日(5月5日)に挟まれた“国民の休日”でした。祝日に挟まれた平日を休日とする制度に基づくもので、いわば“名前のない休み”だったのです。
この無名の一日をそのままにしておくのではなく、「みどりの日」を移して意味を与えた――これが制度上の経緯であります。
理屈としては理解できます。祝日の体系を整理し、空白を埋めたということでしょう。しかし、その整理が国民の実感と一致しているかと問われれば、別の話です。
私は祝日そのものを否定するつもりはありません。人は休み、英気を養うことも必要ですし、観光業をはじめ潤う産業があることも事実です。ただ、休日が増えることの本質を見誤ってはならない。休日とは、突き詰めれば経済活動を一時止めるということでもあります。
今や土日祝を合わせれば年間120日以上。一日休んで二日働く計算です。――このリズムが当たり前になったとき、働くという行為の重みが薄れてはいないか。休みの合間に働くような感覚になってはいないか。そんな危惧を覚えるのです。あらぬ理屈をつける必要などない。単たる国民の休日だけの方がしっくりくる。
仕事は休みたい、だが報酬は欲しい。
これは人情でしょう。しかし、社会はそのような都合の良い仕組みでは成り立たない。大衆受けを狙う政策が繰り返され、結果として「休みを増やすこと」が善であるかのような風潮が広がる。その行き着く先に、力強い国家像が描けるのか。私は疑問を禁じ得ません。
さらに昨今、「AIがあるから人は遊べばよい」という軽薄な言説すら耳にします。しかし、これは大きな誤解です。AIは人間の代わりに思考する魔法の箱ではない。使う人間の質をそのまま映し出す鏡のようなものです。
志高き者が使えば力となり、漫然とした者が使えば、それなりの結果しか生まれない。遊んでいるだけで賢くなるほど、世の中は甘くないのです。
さて、今年は昭和100年。政府は日本武道館にて記念式典を開催し、麻生太郎氏の働きかけのもと実現したと報じられています。高市早苗首相は、昭和の激動を振り返り、未来への思索を促しました。
その趣旨は理解します。しかし、昭和を語るならば、その本質――働き抜いた時代であったことを、為政者自らが示すべきではないでしょうか。
働いて、働いて、なお働く。
その積み重ねが、あの復興と繁栄を築いたのです。
みどりの日もまた、ただの休日に終わるか、それとも自らを見つめ直す契機となるかは、過ごし方次第です。無為に流せば一日、志をもって使えば一歩前進。
祝日の意味を問うよりも、その日をどう生きるか。そこにこそ、本当の価値があるのではないでしょうか。憂いを抱きつつも、前を向く。
それが今を生きる我々の務めであります。Goto



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