人は関係性の中で磨かれる存在であらねばならない。
連日報道される京都の児童殺害事件。義父が絞殺したというではないか。
胸が張り裂ける思いとは、まさにこのことだ。
児童虐待の極致である。愛されることを願い、ただ懸命に生きている子どもを、「気に入らない」という身勝手な理由で奪う。そこに人間の成熟はない。
未熟どころか、人としての根が崩れている。人間は本来、弱きものを守る存在であったはずだ。その原点を忘れたとき、社会は静かに壊れていく。
一方で、SNSの炎上騒ぎ。誰かを叩き、騒ぎ、消費する。
正義を振りかざしながら、実は自分の鬱屈を晴らしているだけではないか。
人の話は聴かぬのに、「自分の声を聴け」と叫ぶ。こんな歪んだ自己主張が蔓延する社会に、果たして希望はあるのか。文明は進歩したが、人間の内面は置き去りにされてはいないか。
人間学の視点に立てば、人は関係性の中で磨かれる存在である。自分ひとりで完結する人間などいない。にもかかわらず、「自分さえ良ければ」という風潮が強まるほど、人は孤独を深め、他者を敵にする。これは必然の帰結だ。
「こころ」は見えない。
だが「こころづかい」は見える。
「思い」は見えない。
だが「思いやり」はだれにでも見える。
(東日本大震災・ACジャパンCM)
ならば、見えぬものを無理に晒す必要はない。大切なのは、行いとして現れる優しさだ。言葉で飾るより態度で示せばよい。寄り添うとは、相手の痛みに自分の時間を差し出すことだ。そこにこそ人間の価値がある。
先日、飛騨高山で発行する地域みっちゃく生活情報誌「SARUBOBO」(創刊30周年を迎えた)の仲間たちと、笑い、語り、感謝の念で杯を重ねた。互いを理解し、支え合う関係の温もりは、何ものにも代えがたい。あの時間こそ、人間が人間である証だろう。
まず、ぼくがいて、つぎにきみがいるのか。
まず、きみがいて、つぎにぼくがいるのか。
答えは明らかだ。人は他者によって生かされている。
我が社の情報誌の精神は「地域愛」。自分の利益よりも、地域の元気を先に考える。その志を胸に働く仲間たちに、深く感謝したい。人を思い、地域を思う。その積み重ねが、社会を静かに、しかし確かに立て直していく。
怒りはある。憤りも尽きぬ。しかし、それに呑まれてはならない。だからこそ、今日も上機嫌で参ろう。人としての当たり前を、愚直に積み重ねるために。Goto


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