「新聞命」 新聞経営の覚悟を見て見たい。
活字文化の転換点に立っている。そんな思いを、最近つくづく強くする。
本を「読む」のではない。「聴く」。そんな時代が、静かに、しかし確実に広がり始めた。
米国では、既に「オーディオブック」が巨大市場に成長した。通勤中、散歩中、家事をしながら、あるいは就寝前に本を耳で楽しむ。活字を目で追うのではなく、音声で知識や物語を吸収する習慣が、日常生活の中に深く浸透している。背景にあるのは、スマートフォンの普及、通信環境の進化、そしてネット社会の成熟だ。いつでも、どこでも、好きな情報にアクセスできる時代になったのである。
日本でも、この潮流は確実に広がっている。特に高齢者の間で静かに浸透している点は注目に値する。加齢とともに、細かな文字を追うのが辛くなる。長時間、本を持つのも億劫になる。しかし、人は最後まで知的好奇心を失わない。「本を読みたい」「世の中を知りたい」という欲求は残る。その願いを叶えるのが“聴く読書”である。
私は、これは単なる流行ではなく、情報伝達の革命だと思っている。
そして今、その波は新聞にも押し寄せている。
我が愛読紙、朝日新聞も、新たに「音声読み上げ機能」の拡充に動き始めた。デジタル版の記事を音声で聴けるサービスであり、利用者は徐々に増えているという。新聞を「読む」のではなく、「聴く」。まさに時代の変化を象徴する動きである。
しかし、私は率直に言って、この取り組みにはどこか“腹の座らなさ”を感じる。
現在の仕組みは、宅配紙面の購読者を対象に、月額千円を追加すればデジタル版の音声機能が利用できるというものだ。つまり、あくまでも紙の新聞を中心に据えた「付帯サービス」に過ぎない。
私は、このやり方では普及しないと思う。
いや、もっと厳しく言えば、過去にデジタル化で後れを取った失敗と同じ轍を踏む危険性がある。
なぜなら、新聞社の本音が透けて見えるからだ。「紙の購読者を減らしたくない」。
その一点に、経営判断が縛られている。
新聞社の経営陣は、多くが優秀な新聞編集者出身である。記事を書くこと、紙面を作ることには長けている。しかし、ネット社会におけるメディア変革の怖さと現実に対して、どこか覚悟が定まっていない。デジタル版を廉価にすれば紙が減る。まして、高齢者向けに“音声新聞”を本格的に展開すれば、宅配購読は急減する。そう恐れているのであろう。
だが、考えてみれば良い。
このままでも新聞購読者は減り続けるのである。都市部では、若い世代の新聞未購読率は七割を超えたと言われる。スマホ一つでニュースが読める時代に、わざわざ朝刊を待つ理由は薄れた。
今、新聞を購読している層は、乱暴に言えば二種類しかない。一つは、新聞文化への愛着と習慣を持つ高齢者。もう一つは、社会の中核を担い、情報の重要性を理解している層である。後者が存在するからこそ、新聞はまだ社会的役割を保っている。しかし、その構造も永遠ではない。
であるならば、新聞は発想を根本から転換せねばならぬ。主従を逆転するのである。紙を主役に据える時代は終わった。デジタルを主役にし、紙は価値ある補完物として残す。その覚悟を持たねばならない。
The New York Timesは、その方向へ舵を切った。だからこそ、紙も生き残っている。単なる新聞社ではなく、“総合デジタル情報企業”へ脱皮したのである。
これからの新聞は、「読む新聞」から「聴く新聞」へも進化せねばならない。
通勤しながら聴く。
散歩しながら聴く。
目が疲れても耳で学べる。
高齢社会の日本において、これは極めて大きな可能性を秘めている。
にもかかわらず、現実の新聞経営は、どこか中途半端だ。変わらねば生き残れぬと理解しながら、変わる覚悟が持てない。その迷いが、「聴く新聞」という新たな可能性さえ、慎重過ぎるサービスに矮小化してしまっている。
私は新聞命である。新聞文化を愛している。
新聞には、権力を監視し、社会を記録し、人々に思索を促す使命がある。だからこそ、衰弱していく現状を見るのが辛いのである。
時代は変わる。
伝達手段も変わる。
だが、新聞の使命まで消えるわけではない。
だからこそ、今こそ腹を括る時ではないか。
「紙を守るために変化を拒む」のではなく、
「新聞という精神を守るために大胆に変わる」。私は、そうした覚悟ある新聞経営を見たいのである。Goto



コメント