喉元

忘れないって、難しいことですすね。
毎日、溢れるように事件が起こり、ニュースが駆け巡ります。
私は新聞症候群です。新聞を読まないと。いや、その日の新聞が手元にないと不安で仕方がない。
それも、六紙に目を通さなければ、落ち着きません。弱ったもんです。
朝日に掲載されていない記事が、毎日にあれば、にんまり。
読売の記事と日経では見方が違うと、なるほど。経済特ダネを中日で読めば「え〜」と驚き。
地元紙のはずのスクープが、全国紙に載れば、得意げな記者の顔が浮かぶ。
新聞で、情報を得る楽しみの他に、新聞作りの現場を想像したり、各紙の比較を楽しんでます。
でも、最近、新聞をめくりながら、ふと?思うことがあります。
それは、新聞が本末転倒しているのではないか?ということです。
何が、転倒しているか?と申しますと、
新聞は情報を伝えるために、発行されているはずなのに?
発行するために、情報を掲載する、という、本末転倒です。
つまりは、本来情報でもないものを、決められた紙面を埋めるために。
決められた時間に配達するために。無理やり記事にして、発行していのではないかとの思です。
この地球上には、60億を越す人間が暮らし、生きているわけですから、
そこには千差万別の事件やニュース起こります。伝えねばならない情報は山ほどあるでしょう。
それを伝えるのですから、本来情報でないものと、あるものを選別するのは難しい。
しかし、隅から隅まで、新聞を読む病気、「新聞症候群」の私には、
今朝の朝刊で伝えねばならない。今日、理解を深めねばならない。という、記事には納得しますが。
ためにする記事が多すぎます。(ためにする記事とは、読者が興味を持たない無駄記事です)
無駄な記事などない。とおっしゃるでしょうが。公平、公正の名を借りた、右を切れば、左も。
過去を切れば未来も。無理やり中立性を保とうとする記事は、無駄記事です。
ためにする記事は、発行するための穴埋めに思えてなりません。
だから、本末転倒ではないか、と思うのです。
人が、物事を忘れるように。(私なんかは、忘れたことも忘れてしまいますが)
どんな重大な事件でも月日がたてば風化します。
新聞が、発行のための「ため記事」を減らすには、
過去の事件やニュースをリメイクする紙面を持つべきではないでしょうか?
新聞に新鮮さが必要という、考えは、思い上がりです。
新聞の使命も変わりつつあります。
人間の愚かな過ちに、警鐘を鳴らし、
それを競い合う、そんな新聞であって欲しいと願います。
喉元過ぎれば、熱さ忘れて、同じ過ちを繰り返す、
人間への警鐘こそ、新聞の使命だと思うからです。
                                Goto

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