高くて固い正しい壁と、正しくない壁。
自ら道を拓け。困難に立ち向かう時の常套句です。
その形容に、こんなのもあります。「鳥のひなは、親鳥が卵の殻を破って生まれ出るのではない。ひな自身が、自らの嘴で殻を割って外に飛び出すのだ。誰かが助けてくれると思うな」「ひなを見習え」。
私は、著名な作家、村上春樹氏のエッセーを目にしたことはありますが、小説は、どこかで少女的(女性向き)な内容だとのイメージをインプットしたらしくて、今まで一冊も読んだことがありません。
ましてや、世界各国で翻訳され、多くの読者の共感を呼ぶ国際的な作家だとも、知りませんでした。いやいや、認識不足。イスラエル最高の文学賞「エルサレム賞」を受賞したのも驚きでした。
氏が、メディアへの露出を嫌い、社会とデタッチメント(かかわりのない)な生き方で過ごしたのも、私が氏に興味を持たなかった。小説を読んでみたいと思わなかった原因かもしれません。
「エルサレム賞」授賞式。「私はデタッチメントやだんまりを決め込むより、ここに来て、見て、語ることを選んだ」とのスピーチで、氏は社会にコミットメント(かかわり)し始めたのだと知りました。
なぜ、氏がデタッチメントからコミットメントに人生の舵を切ったのか?私の想像では、還暦を迎えたからではないか?と思います。同じ関西出身の作家、故司馬遼太郎氏が、そうであったように。
スピーチで話題になった「高くて固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとすれば、私は常に卵の側に立つ、その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます」とイスラエルのガザ地区攻撃を批判した内容。
この賞の主旨が「社会における個人の自由」をめぐる優れた執筆活動に対して贈呈されるもの。であるならば、イスラエルを何度か訪ね、ユダヤの歴史をかじった私の経験から、是非、氏の小説を読んでみなければならない。でなければ、壁の意味がわからない。
とりあえず、1979年作の「風の歌を聴け」。1989年の「ノルウエイの森」。1999年「スプートニックの恋人」の三冊、ちょうど十年刻み。私も還暦、私の人生とも重ね合わせて楽しんでみたい。
このスピーチに対する私の見解は、小説を読んでからにしますが、ただ、その壁が正しいのなら、壁は、卵を壊しはしない。壁は卵が自ら殻を割って出てくるのを待つと思います。
壁が正しくないとするなら、卵は、ぶつかって壊れてはならない。自ら殻を破り、親鳥となって、壁を乗り越えねばならないと思うのですが。
壁は、人間が創ったものですよね。       Goto

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