この道を行く

大晦日になると、親父殿を思い出します・・・・・・・・。
岐阜の守り神。伊奈波神社。私は物心付いてこの神社に近い、集合住宅(岐阜で初めて出来た24世帯が暮らす県営のアパート・勿論・風呂などない)で暮らしていた。高校卒業まで・・・・・。
我が親父殿は、持ち家を持たない主義で(なぜそうなったか?理由は簡単で、共産主義的な思想の持ち主・私有財産を否定していたから)そのアパートが取り壊されるまで、そこに住んでいた。
因みに、子供は私一人の三人暮らし。6畳と4畳半と二畳半の三間。ご本人は、深夜に帰宅し、10時ごろに出社すればよい。朝食と寝るだけ。勤めていた新聞社にも、こよなく愛した歓楽街・柳ヶ瀬も徒歩で15分ほどで行ける。親父殿には都合の良い立地条件だった。
で、その親父殿。自宅で夕食を摂る事はない。一年365日。休日であろうが、暴風雨であろうが、病気であろうが。仕事??に出かけ、深夜にしか戻らない(必ず帰るから不思議である)。だから、私には親子で夕食を囲む習慣がなかった。
だが、12月31日だけは、別。夕方に戻り、近所の銭湯に行く。勿論、私と二人で。(私に背中を流せ、と命ずる。我が家の家風だ。などと、分けのわからない、取って付けた様なことを言いながら)。
それから、テレビを観ながら(紅白歌合戦だが)、親子三人で夕食を取る。紅白が終わる頃、親父殿は着物に着替え、「行くぞ」と、除夜の鐘を聞きながら、神社に向う。これが我が家の大晦日だった。
もう、40年近くも前になるだろうか。大晦日。久しぶりに帰省した私。風呂に行くぞと、親父殿。
何を思ったか、銭湯に向かう道すがら、やおら畑に向かって「立ち小便」(失礼)。「オマエもやれ!!」と。
「オマエなぁー。働くなら岐阜だぞ。えぇー街や」。・・・・「東京には戻れんしなぁー。就職も決まらんし・・・」悩む私を見越していたのだろう。小便が地面に当たる音と、親父殿の一言が大晦日の星空に響いた・・。
そうだよな。親父がいる。友がいる。故郷がある。岐阜があるよなぁ・・・・・。この街で生きていくことを、その大晦日に決めた。・・・・・それが「この道を行く」きっかけだった。
早いもの・・・その親父殿が亡くなって23年目が暮れようとしている。          
今年一年ありがとうございました。
良いお年をお迎えください。                            Goto拝

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