知の拠点

政治に住民パワーを発揮すべきです。
何の資格もない私ですが・・・もっとも資格がないのは、教育を論じることです。別段、自虐的になる必要もないんですが、我が身を振り帰れば中途半端な人生そのもの。他人の涵養に携わるなどおこがましい限りだと思っています。
でも、還暦を過ぎ、経験を積んだ分だけ、世の中のことは分かってきました。政治活動はおカネがないと成り立たないことも、子供を育てるにはある程度の収入がないと、満足できない親の気持ちも、衣食住足りねば礼節を重んじれないことも・・・・おカネの教育です。
社会教育として、人は身勝手なモノで、その勝手さは、その人の育ちや教養で決まることも・・・。人が人を判断する基準は、自分の目で確かめるのではなく、外見や氏素性で決まる理不尽さも。物言いに気を付けなければあらぬレッテルを張られ、息苦しくなることも・・・教わってきました。
それらを総称して、この世の中を構成する根本要因はすべからく「教育」であることも分かってきました。
国立大学の予算がこの6年間、毎年1%ずつ削減されています。その結果、地方大学の存続が危ぶまれています。岐阜では「知の拠点」として岐阜大学の役割は重要です。医学部と付属病院は地域医療を支えています。
工学部や農獣医学部は地域の産業を支え、テクノロジーを育んでいます。文系の地域科学部などは、地域に根差し、地域の経済や地方行政の展開などに貢献しています。
しかし、残念ですが、地域住民は余りにも地方大学に無関心で、その存在を理解していません。
今やこの国の地方は誰の目にも、疲弊は明らかです。再生するのは容易ではありません。再生の道は知的資源の活用しかないと言われています。大学の教員集団は巨大な知的財産です。その「知の拠点」を切り捨ててしまえば、この国から地方は消滅してしまいます。
教員集団に世の中のことが教育されているかと問えば、慰問符が付きますが、知的集団と地域は共存共栄の道を選ぶべきです。そのためには、地方大学を存続させねばなりません。国の財源が如何に不足しようとも、「知の拠点」には優先的に予算を振り分けるべきです。
政治に働き掛けるのは住民のパワーであり役割です。
教育を論じることはおこがましいのですが、我が愛すべき故郷の未来のために、学問・教育の府である地方大学の危機を救わねばならないと思っています。                  Goto

コメント

  1. Goto より:

    コメントありがとうございます。
    岐阜県には美濃市に県立の森林アカデミーがあります。林学に適した素晴らしい環境と教授陣が揃っています。         Goto

  2. kmforest より:

    農学部 懐かしい響きです。かつて学んだところです。現在は応用生物科学部となっています。
    学部だけではなくその下の学科も大きく様変わりしております。かつて林業を生業とするための研究を行っていた林学はなくなり、環境生態科学とか応用植物科学とかに変わってしまいました。樹木を相手にする必要がないんです。
    岐阜は木の国山の国 なんて歌がありますが、これを生業とするための基礎研究を行う機関がありません。
    生業を救うために、何をするべきなのか、そろそろ行動しないといけないのかも知れません。