言葉で、指導できない指導者は、指導者といえない。
この問題は、重過ぎるので。考えたくないのだが。逃げるわけにはいかないので触れて見たいと思う。そもそも、私は子供の頃も、学生時代もスポーツと真剣に向き合ったことがない。今頃になって、結構真面目にゴルフのアスリート目指しているが。(もう、肉体的にも精神的にも・・遅すぎるのだが)
もうお分かりと思うが。大阪の高校生が、命を賭けて訴えた。スポーツ指導での「暴力」の問題である。もう、25年以上も前に話だが。「天皇の戦争責任に言及」した長崎市長に銃弾いう卑劣な暴力で、封殺しようとした事件が起こった。
その長崎市長が友人の結婚披露宴で、こんな話をされたのを思い出す。「暴力にも色々ある。銃弾を放つのも、拳を振り上げるのも暴力だが。相手の心えぐる言葉の暴力ほど、人を傷つける暴力はない」と・・・。
スポーツの指導という名目で。暴力を振るうのを「体罰」というのだが。別な言い方すれば「愛のムチ」。監督・コーチの立場の「体罰」は「愛のムチ」で、先輩が後輩を殴るのは「体罰」といわず「リンチ・いじめ」という。
スポーツは勝負事。勝たねばならない。勝ち負けの境目には「精神論」があり、精神を鍛えねば勝てない、だから「体罰」は往々にして技術や力を磨くための手段のみならず。精神を鍛えるために利用されてきた節がある。それを良し。とするスポーツ指導者は呆れるほど多いのではないか。
話が飛ぶが。自国の利益を確保するために。様々な手段を尽くしても叶わぬ場合。戦争という暴力が許されるのが国家である。国家の使う暴力で、人殺しをしても罪にならないが。理不尽の限りを尽くされ、反発して相手を殴ろうものなら。傷害罪で、逮捕されてしまう。その際の暴力の代償は懲役刑たる「体罰」を受けることになる。
国家の行う「体罰」は批判の対象にならなくて。スポーツの「体罰」だけが社会的指弾を浴びるのは、解せないと思うのだが。「体罰」が納得できないなら。スポーツを辞めれば良い。所詮、スポーツはスポーツなのだから。メディアの一罰百戒。完璧主義は行き過ぎではと思うのは。別次元の話だろうか。
いやいや。誤解してもらっては困る。決して暴力や体罰を容認しているのではない。
スポーツであれ、教育であれ、あるいは国家の利害であれ。暴力や体罰に訴えなければ。自分の意が通らないとは、指導者として、未熟いうか、無能であると言わねばなるまい。
言葉は、相手を励ますことも、頑張らせることも、そして、とんでもない暴力になることもあるのだが。スポーツの指導者のみならず、あらゆる分野の指導的立場の人は、まずは、質の良い、奥行きのある、本物の言葉で指導できてこそ、指導者といえるのではないだろうか。
私は、ゴルフの理屈が頭でわかってきたが。身体がいうことを効かない。だから、自らに「体罰」を与え、どんなに二日酔いでも、悪天気でも・・・早朝ウォーキングとストレッチと若干の筋トレを課している。Goto
2/1毎日新聞
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