学習と学問

知的共同体が必要な時代・・・大学教授の劣化が疎ましい・・・
学問と何か。福沢諭吉は学問とは既成の知識を学習することではない。未知の世界に「働きかける「精神の働き」「心身の働き」を追及することと捉え、江戸時代の学問観は中国古代の聖人が作り上げた体系をひたすら学習することにあったが・・・それは学習であって学問ではない。正しい答えがあるかどうか分からぬ未知の世界を探求するのが学問だと・・・述べる・・・
それが今日に至る・・学習と学問は違うといわれる根拠です。もちろん・・学習の過程、つまりは基礎ができていることが学問の前提条件ということになりますが。・・・なぜこんなことを考えるか申しますと、大学の数がべらぼうに増えたからかも知れませんが、最近は猫も杓子も教授、客員教授なんてよく理解できない教授まで教授です。
教授って名のつく人は・・多分、学問をしてる人でしょう。だから、教授は学者でもあります。学者でなければならないと思うのですが・・・昨今の教授の劣化はひどくないでしょうか。嫌みでいえば・・未知の領域の探求しているハズの人達ってこと。
だから「現在」に疎いので、現実テーマには添わないからかも知れませんが・・・
学習不足、探究心のない教授が多すぎます。例えば経済学者の酷さったらありません。彼らに経済活動の原点ともいうべき企業経営をやらせてみれば、一目瞭然、アドバイスはするが、経営はまったくできない。すぐに倒産させてしまいます。
政治学者も同じで、現実政治の表舞台に立たせると、馬脚を表し、何も答えが出せない、行動できない連中ばかりです。いや、そんなことはない。探究し実践してみたいと考える教授もいると、おっしゃる方もあろうかと思いますが・・・
それを否定する積りはありませんが。大学の数が多くて学生が劣化いしていると嘆く向きと同様に、学習不足で、学問の領域に迫れない教授が多過ぎます。この国は社会のあらゆるところに、知的共同体を作らねばならない時に・・・その核となるべき大学教授の劣化が疎ましい。Goto

コメント

  1. Goto より:

    猛暑です。我が社のスタッフは全員、汗水垂らして頑張っています。広義には実質経済の向上目指して。狭義には我が社の理念「地域社会の活性化」のために。安易な方法で糊塗したり、手を抜きまますと、瞬時にしっぺ返しがきます。経済って生き物ですから。シビアなモノです。クーラーの前では何もわかりません。Goto

  2. GOTO より:

    藤掛先生のような傑物が教鞭を取り、時代考を作り上げて行かれるのです。本物の学者は学者って言わないものです。
    Goto

  3. ウラジミール・イリイチ より:

    後藤社長、私個人、私の所属する大学、学部も力量不足で申し訳ありません。経済学はわかるが、現実の経済のことは理解していない、また経営学なる理屈はこねるが、現実の企業経営はしたことがない、というのが我が国の大学の知的状況です。何よりも学者は現実の社会で汗水たらして労働したことがない人がほとんどです。すみません。

  4. 藤掛 より:

    その通りですよ。だから、私は大学をやめ辞めた後まで教授と呼ばれたくないので名誉教授の申請をしなかったのです。ご存じのように学者と呼ばれるのも拒否してます。
    私は技術者なのです。