日本の若者よ、社会にも打って出よ
秋のパリが騒然としている。教師がいない。校舎が傷んでいる。まともに勉強できる環境を整えてほしい。高校生の切実な要求から始まった抗議が、生活苦への不満とも重なり、全国へ広がった。一部では放火や略奪まで起きた。暴力は許されない。しかし、その映像だけで若者の訴えまで葬ってよいものか。
翻って日本。日本維新の会などが推進した高校授業料の無償化が広がった。教育費の負担を社会で支える。大きな前進である。日本にも教員不足はある。それでも、積み重ねてきた教育の基盤、そのありがたさは認めたい。
だが、授業料が無償になれば、それで教育は完成なのか。学ぶ財布を支えることと、学ぶ人間を育てることは、同じではない。
フランスには革命やレジスタンスの歴史がある。それらと今日のデモを同一視はできないが、権力に異議を唱え、自分たちで社会を動かそうとする気概を感じる。高校生もまた、社会の当事者なのである。
日本の若者はどうか。スポーツでは世界へ飛び出す。その勇気は頼もしい。ならば政治にも、経済にも、自分たちの暮らす社会にも打って出てほしい。不合理を調べ、自分の考えを持ち、言葉にし、合法的に行動する。民主主義は観客席に座っているだけでは育たない。
推しを応援するのも結構。SNSを楽しむのもよい。しかし、自分が生きる社会の行く末まで、他人任せでよいのか。もちろん声を上げている高校生もいる。その声がもっと社会を揺さぶってよい。私は若者の静けさに、寂しさと歯がゆさを覚える。
もっとも、若者を無気力だと叱って済ませるなら、大人は気楽である。異論を言えば「生意気だ」、挑戦すれば「まだ早い」、失敗すれば「だから言っただろう」。その繰り返しで、若者の翼を畳ませてきたのは誰なのか。
私も高齢者の一人である。だからこそ言いたい。高齢者を支えることは必要だ。しかし、若者の出番まで私たちが抱え込んではならない。任せる。機会を渡す。失敗から立ち直る道を用意する。それが年長者の責任ではないか。
先生方にも問いたい。若者の内に火をともす気概を持ち続けているか。同時に政治は、その先生が生徒と向き合える時間と人員を保障せよ。「教育は国家百年の計」と唱えるだけなら、看板でもできる。
人間は、自分の頭で考え、自分の足で立ち、他者のために責任を引き受けることで育つ。怒りも、学びと行動につなげれば社会を変える力になる。
若者よ、もっとものを言え。私たち大人は、その声を受け止める腹をくくろう。授業料を無償にしても、若者の志まで小さくしては、国の未来は開けない。Goto


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