民貧社会

被害者の家族は救われない。
あまり暗い話は嫌なんですが、
無差別殺傷事件でのメディア論調が気になりますので。
秋葉原、八王子両事件とも、根底に社会不安がある。
あるいは、仕事への不満が鬱積した結果だ。とメディアは事件の背景を論じています。
朝日新聞は、今月に入り(たぶん秋葉原事件も絡んでいるのでしょう)社会不安の要因を、医療や年金の揺らぎと、都市と地方、正社員と非正社員など様々な格差をもたらした「公」のほころびと断定。
この国は、困った時の支えとなる「公」の役割と機能が失われた社会。
「公貧社会」になったと名付け、事件の責任を「公」にあると位置付けました。
果たして、そうでしょうか?
私には、どうもすっきりしません。
理由は二つ。
ひとつは、この国の「公」を形作る源は、政治です。この国の政治の有様を選んだのは国民です。
公貧社会であるならば、その原因は国民です。選んだ国民の責任は問われないのでしょうか?
二つ目は、この国には、老若男女問わず。その気になれば「働き口」は山ほどあります。
働きさえすれば、餓える社会ではありません。働かない責任も「公」にあるのでしょうか?
「公」の天国であることは、間違いありません。それをメディアは正すべきです。
だからといって、「公」はすべて「貧」であるとの結論付けは少し穿ち過ぎな気がします。
ましてや、働く意欲を失い、自暴自棄で無差別の殺傷事件を起こす「輩」の背景を
「公」と結び付けるには、論理の飛躍があると思います。
むしろ、メディアに課せられるのは、事件をきっかけとして社会不安を煽ることや、
無理やりに「公」批判を繰り広げることではなく、如何なる理由があろうとも、
無差別殺人など許されない、という、人間の尊厳に論陣を張るべきではないでしょうか。今の風潮、
国民には、背景よりも、「殺人は悪」だという、当たり前を丁寧に知らしめるべきだと思います。
そうしないと、被害者は浮かばれない。その家族は救われない。
そこが欠落してしまうと「公貧社会」どころか「民貧社会」に成り下がってしまう。
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