法令遵守と信仰心とのギャップ
昨日、信州善光寺の数え年で7年に一度の盛儀、前立本尊御開帳を参拝してきました。
叶わぬ時の神頼みで、お参りした分けではありません。
牛に引かれて善光寺参りならぬ、所属ロータリー倶楽部の行事に参加してです。すべてが偶然でしたが、春爛漫、満開の桜と御開帳、それはそれは、大変な賑わい、日本人の信仰心の厚さを見せ付けられました。
前回の御開帳の参詣は628万人だそうです。善光寺はいずれの宗派にも属さず、すべての人の往生極楽の門として開かれるからなのでしょう、今年は、それを遥かに凌ぐ参拝者が訪れているそうです。
至って宗教心の乏しい私目としては、信州善光寺の故事伝来を知る由も、興味もありませんでしたが、「大回向柱(えこうばしら)」に結ばれた綱が、前立本尊の右の手に結ばれた金糸に繋がっていると知り、すべての人は、仏の慈悲と連なっているのだと感慨深く、柱に触れました。
参拝で感じたことは、最近流行の「コンプライアンス」至上主義って、正しいのだろうか?
法令に齟齬が出た場合の、ヒステリックな反応。
日本人はいつからそんなに、「法令遵守」の民族になったのか?法令などと言う、その時代、その流行で左右されるものを絶対視するようになったのか。そんなことが、頭を過りました。
境内のスピーカーから、「回向柱に参拝される方は約一時間半ほど係ります」「山門の後列にお並び下さい」と響く。誰も文句も言わず、頷いて「前立本尊との御縁」を結ぶために居並ぶ参拝者の波。
その光景のどこに、法令遵守があるのだろうか?そんなものはありはしない。あるのは、仏との縁「往生極楽」を願う人の群れです。そこには法令、規則、規範などといった枠に嵌めるような社会とは無縁の世界があります。
前立本尊とは、ご本尊の前に立つ仏のことです。善光寺の本尊は絶対の秘仏で、その姿をあらわすことはないそうです。そこでその仏の姿を写した仏、つまり分身の仏である前立本尊を七年に一度、宝庫から本堂に迎えて開帳するのが、善光寺前立本尊御開帳だと、聞きますと。
人の作った法令に振り回され偏狭になる社会と、
秘仏に往生極楽を求め押し寄せる参拝者とのギャップがどうしても埋まらないのです。
約1400年。日本最古の霊場、信州善光寺を訪ね悩みが深まりました。
人の世とは難しいものですね。 Goto
善光寺御開帳パンフレットより
コメント