法事

形式に捉われなくても・・・・・・・。
昨日は、亡き親父殿の23回忌法要(法事)を執り行いました。
と、書きたいところですが、元来の無精者、手抜きで済ませてしまいました。
冥土で、親父殿が、どんな顔をしているか?チョッピリ心配になりました。
菩提寺の住職殿に、相談。日曜と土曜ではどちらのご都合が?朝一番の法要だと、通常は何時からでしょうか?お経の時間はどの程度係りますか?と。
「大概は日曜日にやられます。ま〜、早くても朝10時ですな。30〜40分を予定してますが。」
「そうですか。では、土曜日。朝9時から。一番ありがたい(短い)お経を上げて戴けませんか〜」
「それに、申し上げにくいんですが。会食はなし、ってことでも、良いでしょうか?」「構いませんよ」
「ありがとうございます。では、6月20日、土曜日、9時って事でお願いします」と日程を決めました。
「あんたは。法事を何んと心得ているんですか」「朝の9時から。無精にもほどがある」と84歳のお袋はカンカン。「でも、お寺さんにお願いして、お経を上げてもらうんだから・それで・・・・・」とぶつぶつ。
そもそも、法事とは、仏教の教えを学ぶこと。それが、どこで、どうなったのか。初七日。四十九日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、三十三回忌と限りなく繰り返される。
我が家の場合は、分家の分家だから、親父殿の法事だけで済むのですが。代々にわたる家では、年中誰かの法事をしなければならない。それは、それで、いいのだが。
その都度、兄弟、親戚が集まっては大変だと、思うのだが。母親にしてみれば、形を整えないのが不満でならないらしい。形式に捉われないのを無精というのなら、私は無精者だろう。
しかし、私は、毎朝、仏壇に手を合わせ、日々を感謝し、自らの至らなさを親父殿に相談している。
私にとっては、故人と日々会話することが、仏教の教えであり、それが法要ではないかと考えている。
住職殿曰く「朝の早い法事は、助かります。私は、朝6時からお経を上げ、竹箒を持って境内を掃除するんですよ。それに、今日は、もう一軒、法要があるんです」と。
早朝法事。午後の予定が立つと、子供たちの評判は上々。
形式に捉われないだけで、無精じゃないですよね。          Goto  

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