ふつうの市民

朝日の論じる開かれた政治とは、不毛論争を提唱することか?
日本は間接民主主義の国です。民意とは国民一人ひとりに与えられた、選挙権で示す。選挙が形骸化して、議会制民主主義は機能不全に陥っているのでしょうか。私はそうは、思いません。政権交代は民意によってなされたのではないでしょうか。
先日。官邸前で金曜日に「脱原発」の抗議行動を起こす群集の主催者と称する一団が、官邸に招かれ、首相に意志を伝えるセレモニーがありました。なんでも、市民運動出身の菅前首相が取り持ちをしてだそうです。
天下の朝日新聞は社説で、首相はもっと時間を取り説明を尽くすべきと、相変わらずの説明責任論と、経済団体や労働組合に属さぬ「組織されない市民」(ふつうの市民というそうだが)が首相に直接訴えるのは、政治文化を変える行為と評価したい。と、市民主義を持ち上げる。
更には、今回のような面会を一度で終わらせるな。胸襟を開いた対話にせよ。そうすることこそ、開かれた政治への一歩だと、セレモニーを手放しで賞賛している。なんでも、このセッティングは、菅前首相だそうだが。
余談だが。面談風景をテレビのニュースで見ましたが。首相に面談するなら、少なくとも身嗜みは整えるべきではないか。長幼の序があってしかるべき。「ふつうの市民」は、公式の場に出る時は、それなりの礼を尽くすモノ。Tシャツにジーパン。髭ボウボウで、長髪束ね。上着も羽織らず。とても、とても、正常な人種とは思えない。
見栄えなんて関係ない。と、おっしゃるかもしれないが。相手がネクタイにスーツ姿。もう、見合っただけで、主張100%届きませんよ。それが、社会の常識というものです。それと、「ふつうの市民」らの要求は、大飯原発再稼働中止。全原発を再稼働させない。全原発廃炉への政策転換。原子力規制委員会の人事案撤回。だそうだが。
首相は、中長期的に原発依存を改めるとの政府方針を説明したにとどまった。それに対して「ほとんど承服しかねる」と返答したそうな。もともと、要求が簡単に通る訳はない。代案のない話合いなんて、単なるセレモニー。折角の機会なのだから、責めて、人事案の対抗案ぐらいは・・・と、思うのだが。
「ふつうの市民」だから。ガス抜きされて大人しく引き下がったのだろうが。朝日が論じるように、こんな、不毛のセレモニーが、「開かれた政治」への一歩だと、するならば。この国は不平不満の坩堝と化すのみ。それでは、国が成り立たぬ。
官邸前での抗議も良いのだが。衆院選が近づいている。一票の重みで、自分たちの主張を実現させるという、「ふつうの市民」しかできない方法で、脱原発の意志を示すべきだろう。それと、朝日新聞。議会制民主主義が機能不全に陥っていると論じるなら。その責任は、抗議行動の主催者を「ふつうの市民」だと規定する「ふつうの新聞ではない朝日」にもあるのではと思うのだが。言い過ぎだろうか?Goto

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