社会の木鐸

朝刊、一面のコラムは一服の清涼剤・・・・
我が社の社員は全員が毎朝、朝日新聞の一面コラム「天声人語」を書写しています。広告の仕事は、揺れ動く社会に目を配らなければ、成り立ちません。新聞に目を通し社会で起こる様々な事象を知る努力が必要です。一面のコラムには人の世に対する祈りにも似た暖かさが滲みます。読めば心を打ち、人間としての幅を広げ奥行きを深めてくれます。
それに「天声人語」が相応しいかどうかは議論のあるところですが。我が社の社員は若い。若い人達が世の中を、保守的に見るよりも、朝日的に斜に構え、少し尖った暖かさで見た方が良い。そんな思いから「天声人語」にしています。
毎日新聞一面の「余録」を79年から02年まで23年間にわたり執筆された大記者の訃報が報じられました。02年当時は「余録」に触れていませんでしたが、追悼記事に・・作家の丸谷才一さんの「私の朝は余禄を読むことで始まる。あの中身のある趣味の良いコラムを読むと、自分の属している文明はなかなか程度の高いものだという気になって、元気が出る」とのコメントが掲載。
私も、新聞を手に取りますと、天声人語・春秋・編集手帳・余録・・・コラムから読みます。そして一面の殺伐としたニュースに目を向けます。新聞は「社会の木鐸(ぼくたく)」だといわれます。意味は「社会の人々を目覚めさせ、教え導く」です。
新聞が「社会の木鐸」たればこそ、一面のコラムは読者が味わう一服の清涼剤でなければ、そんな気概で「毎朝起きると、今日、うまく書けますように」とお祈りして、余録の執筆を続けられたと推察します。
「社会の木鐸」たる新聞であるかどうかは読者が判断するのでしょうが・・・。少なくとも、記者のみならず新聞に関わる全ての人は「社会の木鐸」であるとの自覚を持って、新聞発行に邁進して頂きたいと・・・・故人は願っておられたのではないでしょうか。それを信じて、今朝も一面のコラムを書写し、人間力を磨きます。Goto
追伸
執筆者の著書「諏訪正人の余録」を謹んで読ませていただきます。
ご冥福をお祈り申し上げます。

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