新聞のコラム・・・自己陶酔、独りよがりのような気がしてならないのですが・・・
ボキャボラリーの少ない私としては、言葉を極限まで突き詰めたと言われる叙情詩人・長田弘さんの逝去に接し、哀悼の意を表する「言葉もない」のだが。日本語は難しい。毎日新聞・発信箱(5/12)では小国綾子編集委員が・・・言葉の恩人のような人だったと長田さんを・・・
福島出身の長田さん東日本大震災の悩みを「言葉にできるのは半分だけ。でも書くことは、言葉にできない残り半分を大事にすることでもあるんです」諦めず書き続けなくてはと、書ききれない残り半分を大切に、震災を語り続けねば・・・ためにこそ、言葉があると。
「二分法で半分を切り捨ててしまうのではなく、残りの半分の可能性にも目を向ける、柔らかな、懐かしい論理が今こそ欲しい。すべて半分半分で生きれば人間はもう少しましな存在になれるのではないか」震災後のこの国を見通しての言葉。私はこれからもきっと、迷うたび、長田さんの詩に立ち戻るだろうと、哀悼の意を。
毎日、余禄でも(5/12)・・福島出身の長田さんは自分の大手術と重なった震災後の日々を「いつも考えるようになった/本当に意味あるものは/ありふれた何でもないものだと/魂のかたちをした雲/樹々の枝の先端の輝き/すべて小さなものは偉大だと」立ち上がる言葉が、魂にしみ入る詩集となって・・・誰もが目にしながら見ていない風景を詩に残した。
その向かった天国の風景はもしや言葉を覚える前の記憶にある故郷に似てはいまいかと長田さんを賞賛している。朝日も天声人語で長田さんの詩と文ははっとする一行がいつも静かに佇んでいた。ぜい肉を削ぎ切った言葉の数々は、冗舌と喧騒にまみれた心身に、滋味となって染みてきた。
日常というものを生みだす時間と場所を、生涯かけて慈しんだ人が、震災の痛手が癒えぬ故郷・福島を案じながら静かにペンを置いて旅立った。と、言葉のダシの取り方を極めたハッとする一行「立ち止まらなければ/行けない場所がある」を刻み悼んだ。
天声人語、余禄、発信箱、いずれも大新聞の看板コラム。長田さんの研ぎ澄まされた「言葉」の深みを表現しながら悼むのだが、正直に申して、申し訳ないが、記者の自己陶酔はわかるが、ボキャボラリーのない私には、長田さんの良さがさっぱり伝わらない。ただ、福島の一日も早い現状復帰を心から望むのみである。Goto
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