ボブ・ディランの歌はノーベル平和賞が相応しいのではなかったか。
どうもしっくり来ない。私だけでしょうか。
ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞記念講演の音声テープを聴いて。
聴いてと言っても、原稿に落としたのを読んでですが。
先ず、受賞者は講演せねばならない規定がある。
記念講演をせねば、報奨金が貰えない。その期限が半年以内。
で、ギリギリの6月上旬に、テープに収録して、講演の代役にした。
多分ですが、記念講演の手法が厳密に決まってはいなかったのでしょう、
盲点を突いたんですね。
なぜ、堂々とストックホルムに出掛けて行って、他の受賞者と同じように、
演壇に立って、やらないのか。もちろん、そこで唄ってもよいではないか。
敢えて講演と言おう。講演冒頭「自分の歌が文学とどう関係するのかと不思議に思った」と
文学賞受賞に戸惑いを覚えたと言うが、その答えが講演では聞かれない。
「歌は文学とは違う。歌は読まれるためにあるのではなく、
歌うためにある。歌詞を意図したままに聞いて欲しい」とも言うが・・・
であれば、文学賞にそぐわないと、なぜ辞退しないのか。解せぬ。
やはり、報奨金が目当てだったのかなぁ・・・
同時に受賞した日本の科学者大隅良典さんは、報奨金は若い研究者ために使わせてもらう。
と言う。自分の研究に誇りと自信がみなぎり、その凛とした姿勢に
ノーベル賞受賞者に相応しいと感動する。
そもそも文学賞に歌手を選んだ、ノーベル財団の考え方が良くわからないから、
しっくり来ないのだが、「歌は歌うためにある」なんて訳のわからない講演が
受賞記念講演だと嘯く、ボブ・ディランに、ノーベル賞の資格があるのか疑わしい。
ノーベル賞とはそれだけモノだと言えば、そうだろうが、
これまでに、これからも真摯に研究し、人類に貢献した人たちが、
ディランの受賞と音声テープでの講演に、ワガママで通せるって、
なんと素晴らしい人なのだと苦笑しているのが目に浮かぶ。
ノーベル賞などとは無縁の庶民のひとりとして・・・
ボブ・ディランに与えられるノーベル賞は、平和賞であったなら、
良かったのにと思う。Goto
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