やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君
重すぎてドラマにはできないのかなぁ。
これだけ、情熱的でフェミニスト、そして反戦の思想を持つ。。。
明治・大正を生き抜いた女性はいないのにねぇ。
与謝野晶子は明治11年・大阪堺市生まれ。21歳で文芸誌「明星」に短歌が載って・・
63歳で亡くなるまでに4万首の短歌を残し、24の詩歌集、15冊の評論集を刊行。
22歳で夫・与謝野鉄幹の元に身を寄せ、13人の子どもを産み育てた。
1918(大正7)年。晶子は横浜貿易新報に評論「感染の床から」を寄稿。
「日本でも流行したスペイン風邪」に次々と感染する病床の幼子を見守りながらの
評論は多くの読者の共感を読んだ。(朝日・文化の扉)
その中で「政府はなぜいち早くこの危険を防止するために大呉服店、学校、興行物、
大工場、大展覧会など、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのか」と
対策が後手に回った政府を厳しく批判している。
情報が充分でなかった時代です。如何に彼女が国内外の最先端の知見を持ち、
鋭い感性で物事を見つめていたのかの証明です。他にも教育についての独特の価値観を。
当時最も活発な女性解放運動を実践していた平塚らいてうは、
文芸誌「青鞜(せいとう)」で「子どもは社会・国家のもの」であると訴えたが、
晶子は「子どもは子ども自身のもの」と主張し「一個の独立する人間として捉えていた」。
この価値観はどこから、来たのか。
女学校を出て家業を手伝いながら読書に興じたこと。兄たちが大学に進学したのに
「女」だからと勉学の道を閉ざされたこと。当時妻子のあった鉄幹の元に身を寄せる奔放さ、
外遊中の夫を追って欧州に渡り見聞を広めたのも大きな要因だといわれます。
晶子の代表作から・・・
「やは肌の あつき血汐(ちしお)に ふれも見で
さびしからずや 道を説く君」(みだれ髪から)
押し掛け・略奪婚、凄まじい情熱を託す。
「あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ」(明星第9号)
日露戦争に従軍中の弟を想う詩、反戦の思想が滲む。
「悪龍(あくりょう)と なりて苦しみ 猪となりて
啼かずば人の生み難きかな」(青海波)
四女出産、短歌史上初めて妊娠・出産を正面から謳う。生涯で13人を出産した。
「山の動く日来る、すべて眠りし女
今ぞ目覚めて動くなる」(青鞜・創刊号・巻頭)
いやはや、与謝野晶子、何とも凄まじい女性だ。
ひょっとしたら、私が大好きな作家で僧侶・瀬戸内寂聴さんの
奔放な生き様の師匠は晶子だったのではと思う。
今、この時代だからこそ、NHKの朝ドラで与謝野晶子を描いて欲しい。Goto
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