武蔵を語る両雄、自力の大事さを説く石原慎太郎。その閃きこそが他力の声と五木寛之。
よくよく考えて見たのですが・・・先日鬼籍に入られた石原慎太郎さんの本を
何冊も読んだことがない。理由を思い起こすと三島由紀夫ほどの味はない。
五木寛之さんほどの社会性と申しますか、背景が浮かばない。
だって石原さんのイメージは作家というより政治家ですからね。
引退されてから、幻冬社から次々と出版された話題本はそんなに深くは無かったですからね。
1950年代に登場した「太陽の季節」って、団塊世代でひと世代下であり、
田舎育ちの私には・・ピンと来ない距離と申しますか、遠い存在でした。
その点、石原さんと同世代、生年月日が同じだそうですが・・・の五木寛之さんの
「青春の門」・・・しんすけしゃん(主人公・五木さんがモデル)の方が、
頭にスンナリ入り、今でも鮮明に残っています。吉永小百合さんと仲代達矢が
主演の映画も石原裕次郎と北原三枝の「太陽の季節」よりも印象に。
五木さんが、読売に石原真太郎さんを偲ぶと申しますか、人物評を寄稿しています。
それが実に良い。私が誰かのことを評する機会があれば、このような視点で
書けたらなぁと思います。
自らを日雇い仕事にあぶれ、売血で空腹を満たした激貧時代。(青春の門に出てきます)
「太陽の季節」の風俗は蜃気楼のようにはるか遠い世界だったと対比。
1950年代の五木さんは作家を志していたが、雑誌それも「人民文学」「新日本文学」が
論争の舞台だった。青臭いガチガチの公式主義が当時の私を浸していた。
勃起した男根で障子を突き破った?それがどうした。たかが薄紙一枚破ったことに
大騒ぎするジャーナリズムが、純情に見えた。
当時の私はまさしくまさしく幼稚で傲慢だったと思うと回想する。
そして、石原氏を生の謳歌から死の思念への一作家の変貌を分析することなく、
この人は実に孤独だったんだなぁ、という素朴な感慨に捉われたものだった。
そんな石原さんと邂逅は雑誌の対談だった・・
石原さんは・・・宮本武蔵が一条寺下り松での吉岡一門との決闘に向う途中、
とある神社の前で、武運を祈ろうとしたが、神仏の加護を頼るようではだめ。
あくまでも自力で戦わねば、と心に閃いたものがあり祈るのをやめ、
決闘の場に赴き勝利した・・・
この話を「やはり自力が大切だと主張、
私は「その閃きこそが他力の声じゃないですか」と反論したら、
「またまた五木さんは、そんなことを言って人を騙そうとする」と・・・
苦笑しながら呟いた石原さんの、どこか淋しげな表情が今もくっきり記憶に残っている。
文学に対する憧憬を最後まで抱きしめて逝った青年、というのが彼が残した自画像だったと
思う。・・・なるほど・・どうでしょう。実に素晴らしい追悼だと思いませんか。
もしも、私が誰かの追悼を語る時、
私自身の「青春の門」が問われるのだと思います。Goto
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