文科省ってダメですね。

高校の国語の教科書から・・・文学と詩が消えることに憤りを覚えます。
阿川弘之さんが亡くなられ、淋しいと思ったのは文藝春秋の巻頭が
読めなくなったことです。でもその後を受け持った「古風堂々」・・
作家で数学者の藤原正彦氏の論調は面白い。阿川氏は草場の陰で「なかなかじゃ」と・・
藤原氏曰く「日本人は国語です。小学生の子供に英語を教えるなら、国語を教えなさい。
国語がわからなければ英語を覚えても海外では通用しない。数学もそうです。国語が
ちゃんと理解できなければ数学も新しい発想などでてはこない。文科省は国語を
ちゃんと教えなさい」と国語を学ばぬ日本人は世界から相手にされなくなると嘆く。
ご存知でしたか。高校の国語の教科書が「論理国語」と「文学国語」に分けられ
選択制になったことを。評論や実用文が「論理」、小説や詩は「文学」となりました。
なぜ、論理と文学に分けたのか。文科省の説明では「実社会で役立つ国語力を
身に付けるため」だそうです。学術論文や法律の条文などを教材にして、
社会で即対応できる人材を育成するのだそうです。
高校の進学率は99%です。その高校で小説や詩は非論理的だとして
学ばなくても良いのだそうです。こりゃあかんわ。文科省って、教育を司る所管ですよ。
国家百年の大計は教育です。その中枢が、小説や詩はいらない文学を捨てろっていうのです。
何を考えているのか。
いや、選択制ですから自由だというのですが。そうなりますと理系の生徒は、文学国語を
取らない可能性が高まります。文学や詩の知識をほとんど身に付けずに卒業する生徒が
続出します。こんな例があります。「物理」難解な学問です。逃げたくなるのですが、
かつては文系でも必修科目でした。すべての高校生が履修していました。
それが選択制に移行してからは選ぶ生徒が激減。今や全体の2割も受けません。
これでは・・物理を履修しない生徒は「知識」がゼロになってしまいます。
物理が理解できないのが問題ではなく「物理」という学問が生徒から消えるのが問題だと
教育者の齋藤孝先生はおっしゃる。
国語っていう学問は「小説好きの人はいらない。むしろ、文学の魅力が分からず、
その文化の価値が分からない人のためにあるのです。でも選択制にすれば、
文学に興味がない人は学ばなくなります。小説の魅力を知る機会を奪った国の施策は
罪深いと言わざるを得ません」と厳しい。
論理国語を導入して、人を論破することに価値があるのでしょうか。
論破とは、議論によって他人の説を破り、相手の理屈を立ち行かなくさせること。
論破した方が理が通っていると認識されています。
でもそれって正しいのでしょうか。そんなことを勉強させるのが国語なのでしょうか。
論理の根本にはその人の価値観があります。論理だけ理解し論破してみても
その奥にある価値観を読み解かなければ、実社会では何の役に立ちません。
人の価値観を読み解く学問が文学ではないでしょうか。
齋藤先生は形式的な論理を学ぶなら・・・数学を学べ。哲学者のデカルトは
数学と哲学を区別しませんでした。数学は極めて純粋な「論理」ですからとも言うが・・・
私は数学者の藤原正彦先生が言うところの数学も国語を学ばねば通用しないと信じます。
国語を二つに分ける恣意的な発想。私はこんな文科省に教育を任せておくことそのものに、
この国は大丈夫かと思います。疑問を感じます。あなたはどうですか?Goto

コメント