時代は変わった。全時代的な批判のための批判が社説で良いのでしょうか
朝日新聞に読者から寄せられる声をもとに、編集部門に意見や要望を伝える人がいます。パブリックエディターと申します。要は読者の声を新聞紙面に反映させる記者です。ややもすると思い上がりがちな新聞人たちにとっては良いシステムです。ちゃんと聞く耳があればですが・・・
大学生の読者から・・・社説は何のためにある。そんな質問が飛んできました。
それについて・・パブリックエディターが真摯に向き合った記事がオピニオンのページに掲載されました。私もなるほどと納得しましたので紹介します。
社説とは・・・社の主張ですから、新聞社の考え方です。
社説は「論説」とも称します。「大新聞では毎日偉そうな社説や論説を掲載しているが、真に上等社会の人々はそんな理論は聞かなくとも知っているし、庶民は何の利益も受けない」「我々はただ論説欄を埋めるために毎日書くようなことはしない。ときに発する思想は万行の基となり世間を動かすものでなければならない」と、社説の意義に言及し「本社では真に論ずべき問題のあるときだけ、徹底的に論ずる」・・・それが社説であり論説であると・・・喝破したのは・・
大阪・朝日新聞創刊から半年後の1879(明治12)に大阪日報から転社した山脇巍(たかし)だという。(その人物は新撰組に籍を置いた山脇正勝の変名だとしか判りませんでしたが)
朝日の社説は・・・「政治権力を持つ人たちに『税金を払い投票もしている私たちは見ています、無視していませんよね』という役割」それが社説。「世の中には絶対必要だと思って書いている」と論説主幹は述べる。
私的には良くもまあ・・一日二本・毎日毎日、政府を監視せねばならないことがあるものだと思います。山脇流に申せば、社説欄を埋めるために書いているのではと思う社説が多すぎると思えてなりません。
質問した大学生は・・・新聞は日々スマホで読んでいるが、社説には「政府はこうすべきだとは書かれるが『こうしたらいい』と前が見える感じや何かを得た実感が持てません」と吐露しています。
私はとりわけ朝日ですが、全時代的に政府は何につけても「けしからん」が社説だと思っている気がします。政治権力を持っている奴は皆悪者であるとして「批判のための批判」を繰り返すのが社説だと思っている向きがあります。
それはそれで否定するものではありませんが・・・明治の時代ならいざ知らず
権力者を選んでいるのは国民です。箸の上げ下ろしまで権力者は悪者であると批判する社説は時代にマッチしていないのではないでしょうか。国民の選択を否定することになります。
権力を監視することが使命だと、そのことに自ら酔いしれる・・ナルシスト、
それが今の新聞の社説ではないかと思います。大学生が率直に、社説は今のままで良いのでしょうか・・・社説を読んでも前が見えない・・未来に希望を感じられないと語るのもよく理解できます。
パブリックエディターは、新聞は印刷メディアとデジタルとの過度期にあってもがいている・・山脇巍が喝破したように、論説欄を埋めるための社説を一旦、止めて見てはどうか。そして、真の大衆紙の精神に立ち返り、冒険を恐れぬ社説に変遷する好機なのかも知れません。新聞よ、社説から覚醒せよ。Goto
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