夏の風物詩、長良川の花火大会が再開され2年目です。
私の持論です。活性化とは「人が集うこと」に尽きる。
過疎の村・集落に賑わいが戻るのは年に2回・盆と正月である。
街に出て行った子どもが孫を連れて帰省するからである。
老いた夫婦がソワソワ。あれこれと地元の食材を求め・・・あの子はあれが好きだったとか、これは食べないとか・・思案する。慌てて、押入から古びた布団を取り出し、天日に晒し・・帰省する家族を待ち受ける。
そして薄暗かった民家の窓に灯が点り、笑い声がこだまする。それが田舎の活性化である。日本の夏ですね。私はふと思う。日本の政治家ってなぜ、8月の15日を前後して祝祭日にしないのか?私は祝祭日が多過ぎると、働かない日を増やす休日に反対だ。
海の日があるから山の日も祝日だなんてなんの意味があるのかと思う。祝日が日曜だと翌日の月曜を休みにして三連休にするなんて、ポピュリズムの最たるものだと憤るのだが。正月の三が日を休みにしたのと同じように、お盆を挟んで三連休はあって然るべきだと思う。
年の初めを祝うのと同じように、お盆の三連休は祖先へ畏敬の念を持つことにつながる。田舎に暮らす老いたる親のもとに帰省することは、少なくとも「郷土愛」を育むことであり、社会の最小単位である、家庭の崩壊を防ぐことになるからである。
こんなことを実現するのは簡単なことである。
金融機関と行政を休みにすれば、それで経済が止まる。それで大概の企業は休みにせざるを得ない。その代わり祝日が日曜の場合、翌日の振替休日を無くせば良い。それで帳尻がとりあえずは合う。
活性化とは人が集うこと、観光地やテーマパークはほっといても人が集い活性化するが、過疎地に人が集うのは盆と正月しかないのだから、そうすべきだと思う。まぁ・・・今更でもない話かも知れないが、そうすることで、地方への思いや意識が醸造されればとの願いからそう思う。
花火です。花火は夏の風物詩。岐阜長良川の花火。今年も10日に打ち上げられた。岐阜市・商工会議所・岐阜新聞社・中日新聞社による実行委員会が主催する。以前は二度の花火大会が実施されていた。7月の最終土曜は中日新聞が、8月の第一土曜は岐阜新聞が主催していた。
それが、東日本大震災が発生した年に中止となり。コロナ禍で2年続け、中止され、戦後、70年以上続いた岐阜の夏の風物詩であった長良川の花火大会はそのまま消滅してしまうのではないか?そんな不安がよぎったのだが、両新聞社がお互いのエゴを捨て、実行委員会形式で再開した。
花火を打ち上げるには、相応のコストが掛かる。それを誰が負担するのか。
長良川の花火が中止になるか?再開するかの論点はひとえにそこであった。
4社が応分に負担し、さらにはスポンサーを募り、そして有料観覧席を設けて費用を賄っている。
その意味では長年に亘りそれぞれの新聞社が費用を負担し、
継続してきたことへの感謝の念が市民に足らなかったのではと思えてならない。
岐阜の生活調査では、お盆だからといって帰省する人が減ったそうだ。花火大会が一回になったことが影響しているとは思えないが、活性化とは人が集うこと。
人が集う機会が少なることは、過疎の地が益々過疎化することになる。Goto
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