日経新聞・はみ出す作品・十選に学部・・
ちょっと前の話です。6月の日経新聞の最終面に美術家・冨井大裕さんが選んだ「はみ出す作品」十選が掲載されました。どの作品も芸術性の乏しい私には、首を傾げる作品ばかりですが、広告を生業とする立場で写真をみて、解説文を読むと、なるほどと思う。(興味のある方は検索してみて下さい)
このブログを毎日綴る目的は「新聞を読もう」です。
私の愛読誌に「文藝春秋」があります。年間購読しています。
この10年ほどは、減り続ける購読者を繋ぎ止めようと焦ったのか・・
高齢者の健康問題や終活のテーマが多く、実につまらぬ雑誌に成り下がった。
もう購読を止めようかと思ったのだが。菊池寛が心血を注いだ「文藝春秋」の灯を消してはならじ・・そんな思いから購読を続けてきました。
それが、編集長が交代したのか。経営陣の方針が、意識が変わったのか。「社会に警鐘を鳴らす」特集を組むようになって楽しんでいる。とりわけ、日本の優秀な若者が「医者」になりたがるその本質。あるいは「リフィル処方箋」が浸透しない本当の理由など、この国の病相を鋭く抉る「号」などは秀逸・目からウロコが落ちる思いで読んだ。
私は思うのです。新聞でも雑誌でも週刊誌でもそうです。
売れなくなると、直ぐにポピュリズムに走る。それが良くない。
編集者は売れようが売れまいが、そのメディアの本来のあるべき姿を追求する。その信念を変えてはいけないのです。なぜなら経営者ではないからです。
編集と経営は別物です。メディアの経営者は「白紙の紙」でも売って採算を合わせる。それが新聞や雑誌・週刊誌の経営者でなければならない。売れないから売れるものを編集せよというのは、経営者の経営能力の欠如である。紙メディアとはそういうものである。
話を戻す。日経が掲載した「はみ出す作品」十選のリードには「作品は既存の枠には収まらない。そのことが世の中に謎を生み、私たちが「当たり前」としていた常識や制度を見直すきっかけとなる。そんな「はみ出し者」「不良」作品の面白さを探る」とある。
最初の作品は「アンソニー・カロ」の「ラップ」・・芸術作品とは基本的に台座の上に鎮座しているもの。それが「常識」である。この作品は台座からずり落ちてしまっている。はみ出してしまっている。なぜだと思う。そこに作品を見る人が疑問と不思議を感じる。
果たして台座に鎮座していることがおかしいのではないか。常識が常識でなくなる。そうです。この社会が息苦しいのは、はみだすことは非常識で、許されないという枠にがんじがらめになっているからだ。その枠を取っ払うとどうなるのか。そのチャレンジをするのが、紙メディアの役割ではないか・・そう思わせてくれる・・日経新聞の最終面の特集「はみ出す作品」十選に学ぶ。Goto
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