養老孟司先生に学ぶ

「メメント・モリ」と「カルペ・ディエム」の間で・・・

私は21年、前立腺がんと診断され、全摘手術を受けた。
77歳を目前の今も、当時の経験は自分の中に深く刻まれている。
そんな折、昨年、尊敬する養老孟司先生が肺がんと診断され、今年の春には
再発を公表された。

先生は「88歳になればがんの一つや二つあって当然」と淡々と語られる。
その姿勢に私は強く共感する。日本人の二人に一人は生涯でがんになるとされる。ガンは特別な病気ではなく、人の自然に属する現象なのだ。

養老先生は再発に「自覚症状がないのに治療を受けるのは不思議な気分」と述べられる。病気を敵と捉えるのではなく、自然現象として受け止める視点。
これが老いの境地なのであろう。健康という概念の裏側には必ず病や死があり、がんと告げられると社会的に負の響きを持つのは事実だ。だが、その負の側面もまた人間に必要なものかも知れない。私はこの淡々さに老いの「成熟」を感じる。

がんを通して人は生と死を考えざるを得ない。養老先生は自分の死を一人称。
「他人の死」を三人称。そして「家族や親しい人の死」を二人称の死と名づける。とりわけ二人称の死は強烈で、人の心身に大きな影響を与える。近年、子どもに祖父母の死顔を見せない親がいるが、私はそれを不思議に思う。死は誰にでも訪れる当たり前の出来事であり、子どもにはその現実を経験させるべきだと思う。人は死を実感することから生きる意味を学ぶからだ。

ラテン語の修道院では「メメント・モリ」(死を思え)と挨拶し、その返答は「カルぺ・ディエム」(今日を生きよう)であったという。死を思うからこそ、この一瞬を大切に生きられる。養老先生はこれを「人の自然」と呼ぶ。人は病気になり自然と死ぬ。その当たり前を受け入れることで、むしろ、人生は豊かになるのではないか。

しかし、先生は一方で「自分の死を考えるのはムダだ」とも語る。
死んだ後に自分を。確認することはできない。だから言葉の上の死と実際の死は結びつかない。なるほど明快ではあるが、私はそこに矛盾を感じる。死を考えることに意味がないと言い切る一方で、死を思うことを人生の基盤として語っているからだ。それでも矛盾を抱えながら考え続けるのが人間の知であり、修養ではないかと思う。

養老先生はまた、病気になった時の指針として「居心地のよさ」を基準として述べている。入院しても治療を受けても、大切なのは自分が心地よくいられること。死ぬその時まで心地よい場所を探し続けるという姿勢は、力強い。だが私は思う。人間とは自分が心地よいだけでなく、周りの人に心地よさを与える存在であるべきではないか。家族や仲間に安らぎを与えることができてこそ、生きる意味があるのではないかと。

がんも老いも死も避けられぬ自然現象である。
その前に立ち、私たちはどれだけ修養できるか。
自分も人も共に心地よく生きられる空間を作りながら、
静かに死を受け入れる準備をしていく。それこそが、
養老先生の教えを通して、私が得たがん・老い・死の答えである。Goto

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