新聞の著作権

新聞社はいま一度「公共財」の原点に立ち返るべきではないか。

新聞記事の著作権をめぐる裁判が立て続けに起きている。愛知県蒲郡市が読売新聞と毎日新聞から、記事の無断複製を理由に計8300万円超の損害賠償を求められた問題だ。

行政のイントラネットで、職員向けに共有した行為が著作権侵害に当たるか――実に厄介な論点である。

もちろん著作権は守られねばならない。営利目的で新聞記事を盗用し、加工、再販売する業者に対して、欧米の新聞社が巨額訴訟を起こしている。これは当然だ。しかし今回の対象は“公共機関の内部閲覧”だ。そこに読売や毎日までもが訴訟を起こすというのは、私にはどうにも釈然としない。

行政側も最初は認識不足を認め謝罪し、閲覧を停止した。ところが後に、「行政目的の内部資料なら著作権法上の複製は認められる」と主張を翻した。
行政の開き直りはたしかにいただけない。

しかし、だからといって新聞社が「鼻息荒く」高額訴訟を起こすのが正解なのか。ここが問われているのである。

新聞とは何なのか?
公共の知的基盤としての新聞か。
権力を監視すのが本来の姿か、
それとも、権利をふりかざす営利企業か。
今回の訴訟は、その本質を突きつけている。

著作権の範囲は本来きわめて難解だ。引用の許容範囲、内部資料としての複製、研修用利用…線引きは曖昧である。だからこそ、本来は新聞社側が、二次利用の方針と料金体系を明確に提示すべきなのだ。

記事1件いくらか。
内部共有はいくらか。
年間契約はいくらか。
数量に応じた割引制度はあるのか。

明示されてこそ、初めて自治体も企業もルールに従い、秩序が保たれる。だが、方針を曖昧にしたまま、「使ったな、では3倍請求だ」と後出しで訴訟を起こされては、自治体はたまったものではない。

行政の不見識と新聞社の驕り――その双方が、今回の混乱を生んでいるように見える。もし読売・毎日が訴訟に勝つなら、次にどうするのか。日本中の1720自治体を次々と訴えるのか。それとも「一罰百戒」で済ませるのか。どちらにせよ、新聞と行政の関係は悪化せざるを得ない。

新聞こそ、民主主義のインフラと自負してきたはずだ。
記者は現場を駆け回り、行政情報を取材し、国民に還元する。

行政側も、税金で運営される公共部門として、新聞報道を通じて市民に情報を届けてきた。双方が支え合い、社会を形づくってきたはずである。

しかし今はどうか。
新聞が経営難で苛立っているのか。行政が体質的に甘いのか。
どちらでも良い。問題の本質はそこではない。

新聞社よ、いま一度、自らの存在意義を思い出すべきだ。公共の言論空間の担い手として、ただ権利を振りかざすのではなく、社会全体の情報循環をどう健全に保つか――その視点が欠かせない。

今回の問題が深刻なのは、「自治体が新聞を回覧するだけで著作権侵害になる」という極端な未来が現実味を帯びることだ。

そうなれば、
新聞は読まれない。
読まれない新聞は影響力を失う。
そして民主主義は弱体化する。

新聞命の私としては、こんな情けない未来を見たくない。
新聞の価値を守るためにも、新聞社自らが、二次利用の明確なルールと価格設定を示すべきだ。それこそが、新聞がこれからも社会の信頼に応え、読者から選ばれる道である。

世知辛い時代になった。
このままでは「オチオチ新聞も読めん」ではないか。
新聞社よ、原点に返れ――。新聞命の私としてはそう強く申し上げたい。
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