梅一輪、老いの矜持

2月22日。世間は猫の日だそうだ。

なるほど「にゃんにゃんにゃん」か?
語呂はいい。だが、我が家に猫はいない。いるのは座敷豚が一頭――失礼、家人に叱られるからこれ以上は控えるが、ともかく猫の話題に与する必然はない。

その代わりと言っては何だが、猫の額よりもさらにささやかな庭に、梅の老木が一本ある。若い頃、よりによってガレージの日陰に植えてしまった。あの時、なぜもう少し陽当たりを考えなかったのか。いまでも小さな悔恨が胸をよぎる。

ここ二、三年、花付きはめっきり衰えた。枝は痩せ、幹は乾き、「もうあかんのか」と半ば見限ったこともある。ところが一週間ほど前、小枝の先にぽつりと一輪、白い花が咲いた。

思わず声が出た。
おい、生きてたんか。

「老木に名残り雪舞い梅一輪」

拙い句だ。だが、その拙さもまた今の心境に似つかわしい。老木は誇らない。群れない。騒がない。ただ「俺はまだここで静かに生きているぞ」と言っている。

横を見ると、さらに細い枝にもいくつかの蕾。もう一花咲かせる、という景気のよい話ではない。老力、意地、あるいは執念。弱りながらも春を忘れぬ気概が、蕾の固さに宿っている。

そうか、頑張れよ。
俺もまだまだ老骨に鞭打つか――そんな共鳴が胸の奥で小さく鳴る。

梅は実に渋い花だ。百花に先駆け、寒風の中で咲く。条件が整うのを待たない。寒いからこそ咲く。その姿に、日本人は古くから心を寄せてきた。華やかに散る桜とは違う、耐えて香る美学である。

我が社のある岐阜市梅林校下の近くには、約百種類の梅が植えられた梅林公園がある。そういえば、何年も足を運んでいない。ちょうど梅祭りの頃だ。公園の持ち主でもある、味噌田楽と鯉のあらいで名高い料亭が静かに佇んでいるはずだ。

「田楽に熱燗舐めて梅香る」

焦げ目の匂い、湯気の向こうにほのかな梅の香り。梅の香は押しつけがましくない。近づいた者にだけ、そっと届く。人もまた、そうありたいものだ。声高に語らずとも、そばにいる者が自然に感じ取る存在。

白梅の潔さもいいが、紅梅のほのかな艶もいい。

「凛として清楚なれども紅梅の」
続きはあえて詠まぬ。梅は説明しすぎると興ざめだ。香りは追えば遠のく。

そうだなぁ。週末だ。
たまには梅に囲まれてみるか。殺伐とした浮世に一本、竿を挿すように。老木の一輪が教えてくれる。Goto

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