赤旗日曜版編集長を特集する中日夕刊
三月――。多くの企業が決算を迎え、この一年の歩みを振り返る。成果に安堵する者もいれば、思うに任せぬ現実に歯軋りする者もいる。
だが、反省とは後ろを向く行為ではない。むしろ前進のための礎であり、自らを鍛え直す起点である。そう言い聞かせ、新年度へと覚悟を新たにする季節である。
そんな折、ふと考える。新聞社も株式会社である以上、当然ながら財務の決算は厳格に行っているはずだ。では、紙面そのもの――すなわち「言論の成果」について、果たして一年を通じた総括がなされているのだろうか。
どの記事が誰に読まれ、どのような層に届き、どのような反響を生み、社会にいかなる影響を与えたのか。そこまで踏み込んだ検証が日常的に行われているのか、私は疑問を抱かざるを得ない。
我が社においては、発行する情報誌の反響は徹底して追跡し、広告効果を数値化し、クライアントと共有する。それは商品として当然の責務である。ならば新聞はどうか。掲載して終わり、では済まされぬはずである。
もちろん、重大事件や政治案件については、有識者を交えた検証や編集会議が行われているであろう。しかし、それ以外の記事はどうか。日々流れゆく膨大な紙面が、検証されぬまま過去へと押し流されてはいないか。その姿勢こそが、新聞の衰退を招く本質の一端ではないかと、私は危惧する。
そうした中で、中日新聞の夕刊「特報」欄に掲載された企画には、強い衝撃を受けた。共産党の機関誌「しんぶん赤旗」日曜版の編集長を取り上げ、その報道姿勢に光を当てたのである。新聞とはかくあるべきだと、思わず背筋が伸びた。
振り返れば、明治初期の新聞は政党の機関紙として出発した。だがそれでは偏向を免れぬとし、陸羯南は政党から独立した言論を掲げ、「日本」を創刊した。権力に対峙する中立の立場――それこそが近代新聞の原点である。
近年、「赤旗」は幾つもの政治スクープを世に問うてきた。自民党派閥の裏金問題、「桜を見る会」問題など、権力の深部に切り込む報道は、まさに新聞の本懐であろう。編集長は「権力監視が最も重要なテーマ」と語る。その言葉に偽りはあるまい。
私は、政党機関紙であるか否かは本質ではないと考える。重要なのは、権力と真摯に向き合う覚悟である。その姿勢が読者に支持されているのだ。
裏を返せば、日刊紙の一部に見られる「権力との距離の曖昧さ」、いわば馴れ合いの空気こそが、読者の信頼を遠ざけているのではないか。
その意味で、中日新聞が自らと立場を異にする媒体を正面から評価し、特集として掲載した意義は極めて重い。そこには新聞人としての矜持がある。他者を認め、学び、己を省みる姿勢――それはまさに人間学の根幹である「自省」と「成長」の実践である。
年度末である。企業が自らの商品を徹底的に検証するように、新聞社もまた、自らの紙面を厳しく見つめ直すべき時ではないか。どの記事が社会を動かし、どの記事が埋もれ、何が足りなかったのか。そこに真摯に向き合うことなしに、再興はあり得ない。
奢りを捨てよ。過去の栄光に安住するな。
読者の信頼は、不断の自己検証の上にのみ築かれる。
新聞命の私として、願ってやまない。言論の担い手たる新聞社が、今一度その原点に立ち返り、自らを鍛え直すことを。その先にこそ報道の未来が開けるのである。Goto


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