まだまだ耆脩を重ねねば。
五月、えぇ気候だ。薫風に誘われて思う。
「少年老い易く、学成り難し」――朱熹の『偶成』の一節が、いまの私には若き日の戒めではなく、人生を総括する鐘の音のように響く。
喜寿を過ぎ振り返れば、まさに“池塘春草の夢”である。
春の池のほとりで草が芽吹く、その穏やかな夢に身を委ねているうちに、気づけば庭前の梧葉は音を立てて落ち、秋はとうに深まっていた。
人は若き日、時間が無限にあると錯覚する。挑戦も、努力も、明日でよいと先送りする。しかし歳月は容赦がない。「一寸の光陰軽んずべからず」とは、まさに真理である。
私自身、幾度となくこの言葉に背を向け、後悔もした。それでもなお今日まで歩んでこられたのは、ひとえに人とのご縁に支えられてのことだ。
いや、まだ歩み続けているつもりだが。
人間たりて根幹は何かと問われれば、私は迷わず「感謝」と答える。感謝とは単なる礼儀ではない。生かされている自分を自覚することであり、己の小ささを知ることであり、他者の存在によって己が成り立っていることを受け入れる心である。
親、師、友、そして共に働く仲間たち。どれ一つ欠けても今の私はない。まさに「飲水思源」、水を飲むとき井戸を掘った人を忘れるな、である。
喜寿となった今、思う。人生は終盤に入ったのではない。むしろ、ここからが真の修養の時であると。若き日は外に向かって力を競い、成果を求める。しかし老いてこそ、内を磨くべきだ。己の心を耕し、徳を積み、静かに人に尽くす。これを私は「耆脩」と呼んでいる。齢を重ねた者がなさねはならない修養である。
かつては夢を追い、結果を求め、勝ち負けに一喜一憂した。しかし今は違う。どれだけ人に感謝できるか、どれだけ人の役に立てるか、その一点に尽きる。春の夢に酔う時は過ぎた。ならば秋の深まりの中で、いかに実りを残せるかが問われている。カッコ良すぎるかな。ハッハッハ。
「階前の梧葉すでに秋声」――その音は寂しさではない。むしろ、次なる季節への呼び声である。人生は邂逅し、開眼し、やがて瞑目する。その道程において、どれだけ感謝を深められるか。それこそが人間の価値を決めるのではないか。
残された時間は決して多くはない。だからこそ、一瞬一瞬を大切に生きる。出会いに感謝し、縁に報い、静かに己を磨く。喜寿のいま、私はそう覚悟している。なぜか感傷的な朝である。Goto


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