所詮・・・新聞記者などと言うモノは・・・・
これはなかなか難しい問題だが、あえて述べて見たい。先週の読売新聞の社説。新聞の責任についてです。社説では、新聞人の責任と使命の重さを大震災で改めて思い知った・・・との書き出し・・
本来・・・きめ細かな震災情報を発信すべき自治体はその手段を失った、新聞がその代役を務めた結果、多くの人に感動を与え、政府や自治体を動かし、内外からの手厚い支援を集めることに、少なからず貢献した・・・・と・・・
さらに、販売網を断たれるなど、少なからず被害を受けたが・・地域紙の手書きの壁新聞などに見られた・・記者魂、不屈のジャーナリズム精神が・・・新聞人の「新聞を届けたい」との願いとなって、復興を後押ししているなどと・・・震災で新聞の使命と責任を果たしたと・・・・・社説は自画自賛する。
同日の紙面では記者が見た被災地と題して・・・「復興の鼓動・・伝えたい」と5名の記者の活躍ぶりと記事を写真、経歴、社歴、おまけに年齢まで付けて特別仕立て。震災から2カ月目の特集記事にしては、自社の記者を褒め称えている・・・随分・・・力が入っている。
私は、大震災報道で、河北新報が総力を挙げ、あらゆる困難を乗り越え、朝夕刊を発行し続けてた事実に、まさに、新聞魂ここにありを・・・仙台を尋ねたおりに聞いた・・・でも記者の活躍ぶりなど・・・書かれることはなかった・・・いずれ検証するのかもしれないが。
その意味で、取材の労苦を社説に書くのは正直で、納得するのだが・・・。大震災報道を・・現場に入って、徹底的に取材し、真実の報道をするのは、そもそも、新聞社として当たり前のこと。それを、震災から2か月の特集で、あえて、「どうだ!」と、自分達の仕事を自分で称えるのは、お門違いで、気持ちが悪い。
そもそも、新聞記者などと言うモノは、社会を斜めに見る・・すねモノ。常識のない変わりモノである。それらを飼育する新聞社も・・・実は社会の黒子でなければならないと思う。それが、最近は何を勘違いしたのか・・・新聞社の幹部たちは・・財界や各種団体の代表者や理事など・・平気で社会の表に出たがる。
ついでだから・・・現職の新聞記者(解説者も論説委員も)が、テレビの報道番組で、コメントするのもおかしい。新聞記者はペンで勝負するもの、口先で、したり顔で、蘊蓄を述べるなど持っての他と言わねばならない。
話が逸れたが、メディアは第四の権力と言われて久しい。とりわけ新聞は、そのメディアの盟主である。その盟主の、さらに中核である全国紙が、武器である紙面、それも「社説」を使って、自画自賛するようでは・・・新聞人の矜持も、誇りも・・どこに・・と・・・・問いたい。
そんな風に、社説を読む私も・・・すねモノのなんだろうか? Goto
5/11読売新聞
コメント
先日の中日新聞夕刊、記者の目コーナーで真実を伝えるには一面的ではダメ。複合的でなければと、語っていましたが。朝日新聞の社会派を装う社説くらい一面的でヒステリックな記事はありません。浜岡を政府が止めれば、止めたで、他の原発は危険でないのかと問い。全部止めろと言わぬばかり。かと思うと、夏の電力不足をどうするのかと政府を責める。
一面的な見方で、ご都合主義の社説を読まされていると、卑屈な人間になってしまうのではないかと思うのですが、その性か、まとまりのない、身勝手な国民が増えた気がします。私はメディアの責任だと思うのですが。Goto
仰る通りです。メディアは陰で世の中を支える黒子です。ロータリーでも財界でもまつりあげられて、裸の王様状態かと思う点も多々ありますね。公共の機関であり私企業であるという二面性のせめぎ合いの上に乗っかっていますが、経営という点で捉えれば、まさしく私企業です。私企業だから真の報道が出来ないことはないので、これは経営者の経営哲学の問題なのです。