「力」について若干の考察

力とは何か、りんごの木を植えるために使いたい。

トランプ大統領が、力によってベネズエラの大統領を拉致したという報が世界を駆け巡っている。真偽や外交的是非はさておき、「力」というものが、あまりにも露骨な形で提示された出来事であることは間違いない。

いま改めて問いたい。力とは何なのか。
人間学の視点に立てば、力は単なる腕力や軍事力、権限や制裁の行使を意味しない。それらは確かに「できる力」ではある。しかし、それは同時に、最も原始的で、最も短命な力でもあると教える。

経営者として、人の上に立つ立場から言えば、恐怖で人を動かす力は、最も安易で、最も高くつく。一時は従わせることができても、人の心は離れ、組織は静かに腐食する。怒号が飛び、命令が増えるほど、現場の知恵は失われていく。結構いるのだ。力がないくせに。

真の力とは、命じずとも人が動く状態をつくることだ。安心があり、信頼があり、「この人のためなら」と思える空気がある。その場を整える力こそ、経営者に求められる力である。でなければ人の上に立つ資格はない。

喜寿を迎え、耆脩の立場で生きたいと願う老人の目から見れば、力の定義はさらに変わる。若き日の力は「押す力」だった。だが年を重ねて分かるのは、抑える力、待つ力、委ねる力の尊さだ。怒りを飲み込み、結論を急がず、人の成長を信じて時を渡す。その静かな力は、決して派手ではないが、人の背中を温める。老人が振りかざす力ほど醜いものはない。老いてなお尊ばれるのは、使わぬ力を持つ者だけだ。風になりたい。

組織文化の視点で見れば、力は個人の属性ではない。力は文化として蓄積される。恐怖が支配する組織では、力は上から下へしか流れない。だが、感謝が飛び交う組織では、力は循環する。誰かが誰かを支え、全体として強くなる。ここに至って、力は暴力でも支配でもなく、徳として立ち現れる。

力とは、相手を屈服させる能力ではない。
周囲を安心させ、人を育て、時を味方につける総合力である。

世界が力の誤用に震えるいまだからこそ、私たちは問い続けねばならない。――その力は、人を大きくしているか、と。

ましてや、世界一の強国の使う力、圧倒的な軍事力とはいったい何なのか?決して人類を恐怖に陥れてるモノではないはずだ。力に力で対決する愚かさだけは、避けたいものであるが、世の中、ずいぶんときな臭くなってきた。老人の力で何ができるのだろうか?りんごの木を植え続ける力しかないのだが・・Goto

コメント

  1. オイダ より:

    分断、分割、モンロー主義、アメリカファースト、外国人排斥。
    ぶっそうな言葉ばかりです。
    強い国は、より強く。
    弱い国は、束になっても弱いままかなわない世界。
    やってることは名前を変えているだけで、
    植民地支配の時代のただの都合の良い帝国主義です。
    自国民には民主主義を唱え、
    国と国との交渉は力でものをいわせる覇権主義国家アメリカ。

    きれいごとで物事は進まないのは理解できますが、
    日本は戦争を放棄した民主国だからこそ、
    できることがあるのではないかと思ってます(しかしながらそんな政治家もいません)。

    東も西も嫌な話ばかりです。
    いやになります。

    • goto より:

      米国以外・どこと?ないのです。
      日本は人的資源を駆使して、経済力を高める。
      それによって、米国と対等になる。それしか私には見つかりません・・・
      残念ですが。
      後藤拝