老いて驕らず、耆脩(きしゅう)あるのみ
新しい年の始まりに、新年会の席で再会した仲間たち、変わらぬ笑顔で声をかけてくださる親しき友たちの存在が、胸に静かな喜びを運んでくれた。喜寿を過ぎてなお、こうして友誼を頂けることの有り難さを、今年ほど深く感じた年頭はない。年を重ねるとは、出会いが減ることではなく、出会いの重みが増すことでなのだろう。
どうやら高市首相は、通常国会の冒頭解散に踏み切る構えだという。
思惑と真偽はともかく、政治が再び緊張感を帯びてきたことだけは確かだ。
私はこの緊張を、決して悪い兆しだとは思わない。むしろ、必要な覚悟が問われる局面に入ったのだと受け止めている。
とりわけ中国との関係を考えれば、政権の不安定さは致命的である。足元が揺らげば、必ず舐められる。歴史がそれを証明してきた。だからと言って、高市首相の支持率が高いからと自民党が勝利すると考えのは甘すぎる。
日本の政治はもはや55年体制を遠くに置き去り、イデオロギーの執着を捨てさり、新聞の主張など無意味として、未知の領域に向かって進んでいるのだ。
もし総選挙となるなら、その一枚のカードを握るのは国民だ。政治の主導権を、国民が自らの手に取り戻す。これは健全であり、実に良いことだと思う。如何なる結果になろうとも。
そんな年頭に、久しぶりに再会した仲間たち、変わらぬ声を掛け合えた親しき人たちの顔が、心に浮かぶ。一つひとつの再会が、当たり前ではない奇跡であり、深い感謝の対象であることを実感する。
ふと脳裏をよぎったのが、論語の言葉、
「七十にして矩を踰えず」である。
心の欲するままに行動しても、道を外さぬ境地。孔子はそれを人生修養の到達点として示した。自由でありながら放縦に陥らず、自然体でありながら節度を失わない。これほど厳しく、同時に美しい言葉はない。
この言葉に触れるたび、私は喜寿に立てた座右の銘、「耆脩」という二文字を噛み締めねばならない。年を重ねた者にこそ必要な修養がある。
若い頃は中途半端だったが、技を磨き、力を蓄える修養だったと思いたい。しかし耆脩は、自らの心を点検し、驕りや慢心を削ぎ落とし続ける営みだ。年齢は免罪符ではない。むしろ、年齢を重ねた者の心の在り様は、組織にも社会にも、そのまま映し出される。
再会した仲間たちの背中を思う。地域のために汗を流す同志。多くを語らずとも信頼で通じ合える友たち。こうした存在に恵まれていること自体が、何よりの財産である。私はその感謝を、「ありがとう」の言葉だけでなく、日々の姿勢で示したい。
心のままにして、なお外れず。その境地へ至る道は遠い。だからこそ耆脩が要る。新しい年、新しい気持ちで、また一歩。国の行方を見据えつつ、身近な人への感謝を胸に、私は静かに己を修め続けたい。Goto


コメント