権力と教養

再び申す。リベラルアーツを身に纏え

特別国会が召集された。新人議員が当選証書を手に国会議事堂に入った。
晴れがましい風景のはずだが。妙に白々しさを感じる。

自民党が大勝した。比例の候補者が不足するという、選挙制度の歪みがまたも露呈した。制度の想定を超える議席増。けれども、圧倒的な権力を握った側から、この制度を正そうという声は、おそらく上がらぬだろう。
勝者は往々にして、仕組みの欠陥を温存する。

それが政治の現実である。「悪法もまた法なり」と言ってしまえばそれまでだが、そこに安住するならば、民主主義は痩せ細る。

もちろん、選んだのは国民だ。そして、この国の構造的な歪みを長年つくってきた責任の一端は、くたばりかけている我々団塊の世代にもある。高度成長の残像に酔い、問題を先送りし、若い世代に重荷を渡してきた。その自覚なくして、政治を批判する資格はない。

前置きが長くなった。
今回、本人の力量以上に、制度の偶然によって国会に議席を得た人たちがいるだろう。比例区に名前を貸し、結果として衆院議員になった人たちだ。

あなた方に言いたい。
せめて、リベラルアーツを身に纏う努力だけは怠るな。

リベラルアーツとは何か。それは単なる知識の寄せ集めではない。哲学、歴史、文学、経済、科学――それらを横断しながら、「自分は何のために存在するのか」「権力とは何か」「国家とは何か」を問い続ける姿勢である。

議席は制度が与える。
だが、品格は制度では与えられない。
多数を握ることと、正しいことは同義ではない。

拍手喝采と、歴史の評価も一致しない。だからこそ、権力を持った者ほど教養を持て。力を持った者ほど、自らを疑え。多数に守られている時ほど、少数者の痛みに想像力を巡らせよ。それが人の上に立つ者の最低限の作法である。

翻って、我々中広グループ。広告業を生業とする限り、全メンバーがリベラルアーツを身に纏わねばならないと、私は覚悟している。

広告とは、人間理解の産物だ。
地域を元気にするとは、人間の営みを深く知ることだ。数字だけ追う者に、地域は見えない。流行だけ追う者に、歴史は見えない。利益だけ追う者に、志は宿らない。だから我々は学ぶ。哲学を学び、歴史を学び、政治を学び、文学を読む。

人間とは何かを考え続ける。リベラルアーツとは、自由に生きるための学びであると同時に、「責任を引き受ける覚悟」を養う学びでもある。権力を持つ者も、企業を率いる者も、最後に問われるのは、どれほど深く人間を理解していたか、である。

時代は荒れている。
だからこそ、凛と立て。制度に甘えるな。多数に溺れるな。教養を鎧ではなく、背骨にせよ。それが、私たちの世代に残された、せめてもの矜持である。Goto

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