春の新聞週間

「桐島、新聞やめるってよ」

新聞命の私である。
朝、新聞に目を通さぬ日はない。紙面を繰る音、インクの匂い、その一つひとつが一日の始まりを整えてくれる。休刊日は休肝日のようである。

私にとって新聞とは、単なる情報ではない。世の中と向き合うための「型」であり、思考を整える道具であり、何よりも信頼の拠り所である。

そんな新聞に、春の新聞週間がある。
毎年この時期になると、「新聞を読もう」と声を上げる。進級、進学、就職と、新しい生活が始まる節目に、新聞の魅力を伝えたいという思いから始まった取り組みだ。主催は日本新聞協会。新聞、通信、放送各社が倫理と質の向上を目指して連携する、自主的な組織である。

しかし、現実は厳しい。新聞の購読者は減少の一途を辿る。歯止めをかけたいという願いとは裏腹に、この新聞週間の存在すら知らぬ人が大半だという。

新聞人は、この現実をどこまで直視しているのだろうか。私ごときがいくら声を張り上げても、大きな流れを変える力にはならぬのかもしれない。そう思うと、正直、胸が締め付けられる。

今年の新聞週間では、作家。浅井リョウさんと女優・大友花恋さんが新聞との向き合い方を語っている。浅井さんの言葉が印象に残る。ネット全盛の時代にあって、新聞は専門家が責任を持って書くことで価値を持つべきだ、と。時代がどれほど揺れ動こうとも、しっかりと錨を下ろしている存在であれと。なるほど、その通りである。

新聞の良さは、網羅性にある。自分の好みに最適化された情報だけを受け取るのではなく、自らの考えと異なる意見にも触れることができる。

そこにこそ、思考を鍛え、社会を立体的に理解する力がある。新聞は、決して心地よい情報だけを与えるものではない。時に耳の痛い現実を突きつける。それでもなお、そこに価値がある。

それにしても、である。
かつて「桐島、部活やめるってよ」という浅井さんの鮮烈な作品があったが、今の時代を見れば、「桐島、新聞やめるってよ」とでも言いたくなるような状況ではないか。笑えぬ冗談である。

新聞の長期的な凋落に、本当に歯止めはかかるのか。正直に言えば、私も確信は持てない。だが、それでもなお、新聞を手放してはならないと思う。なぜなら、新聞とは単なるメディアではない。社会の基盤であり、民主主義を支える装置であり、人間の思考を深める文化そのものだからである。

春の新聞週間。
今年もまた、私は新聞を手に取りながら、静かに願う。この一枚一枚の紙に込められた営みが、どうか途切れることなく、次の時代へと受け継がれていくことを。Goto

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