教育とは安易や時代に流れるモノではない。
デジタル教科書について、私は便利さを否定するつもりはない。
時代はAI社会へ向かい、教育現場でもデジタル活用は避けて通れぬ。調べ学習も、映像教材も、オンライン授業も、確かに可能性を秘めている。だが、だからと言って、紙の教科書を軽々しく捨ててよいのか。私は強い危惧を抱く。
世界でも先進国と言われた北欧、スウェーデンの現状は重い教訓を突き付けている。
スウェーデンは世界に先駆け、学校教育へパソコンやタブレットを大量導入した。2010年頃から急速にデジタル化が進み、紙の教科書は次第に姿を消した。ところがである。2022年、子どもたちの読解力や計算能力が大きく低下した。政府は神経科学者や小児科医など専門家に分析を依頼。その結果、「行き過ぎたデジタル化には負の影響がある」と結論付けたのである。
特に幼少期の脳は発達途上であり、刺激に極めて敏感だ。
画面を流れる情報は瞬間的で、脳を“浅く読む”状態にしやすい。じっくり文章を追い、考え、想像し、記憶を定着させるには、紙の教材の方が有効だという研究結果が示された。集中力や思考力を育む上でも、紙の価値が見直されたのである。
その結果、スウェーデン政府は2023年、「アナログ回帰」へ舵を切った。
世界最先端を走った国が、敢えて立ち止まり、「紙へ戻る」決断をした意味は極めて重い。
翻って日本である。
日本では現在、デジタル教科書は「代替教材」という位置付けであり、正式な教科書ではない。政府は2030年度を視野に、正式な教科書として認める法改正を進めようとしている。世の中は「便利」「効率」「DX」の大合唱である。教育現場も、時代遅れだと批判されたくないから、何でもデジタル化へ流れがちだ。
しかし、教育とは流行ではない。
教育は国家百年の計である。
私は、この国がここまで自己中心的な社会になった背景には、長年の教育政策の迷走があると思っている。
「競争は悪だ」「皆仲良く」「叱ってはいけない」「努力より個性」――。耳障りは良い。しかし、人は鍛えられねば強くならぬ。忍耐も、礼節も、責任感も、人との関わりの中で磨かれる。過保護に緩めた教育が、人間の芯を弱くした側面は否定できまい。
だからこそ、今回のデジタル教科書についてだけは、文部科学省が慎重姿勢を取っていることを、私は評価したい。
たとえそれが、「決め切れない役所体質」の結果であったとしても、拙速に走らぬことは時に英断となる。
紙には力がある。
本をめくる感覚。行間を追う集中。鉛筆で線を引き、余白に考えを書き込む行為。そこには、人間の五感を通じた“学びの深まり”がある。紙を読むとは、単なる情報取得ではない。思索であり、内省であり、自分と向き合う時間なのである。
新聞もそうだ。
活字を追い、自ら考える。そこに民主主義を支える知性が宿る。スマホの短文や動画ばかり追えば、人は次第に「考える力」を失ってゆく。刺激には反応するが、熟考できなくなる。今の社会の荒廃は、その危うさを映しているように思えてならぬ。
もちろん、AIもデジタルも使えば良い。
否定する必要はない。便利な道具は活用すべきだ。だが、人間が道具に使われてはならない。教育の目的は、機械を操作できる人間を育てることではない。人格を磨き、他者を思いやり、社会に尽くせる人間を育てることにある。
だからこそ、安易に紙を捨ててはならぬ。
便利さの陰で、人間の根っこまで失ってしまえば、国家の未来は痩せ細る。
スウェーデンの「アナログ回帰」は、決して後退ではない。
人間とは何か。学びとは何か。教育とは何のためにあるのか。そこへ立ち返った、重い問い掛けなのである。
日本の教育行政もまた、その警鐘を真摯に受け止めて欲しい。 Goto


コメント