日中不再戦

「米寿の巻」を拝読して・・・・。
街には語り継がなければならない歴史がある。岐阜市、金華山の麓に小さな「日中友好」と名付けられた公園がある。入り口には龍門があり、そこから仰ぎ見ると岐阜市のシンボル岐阜城が望める。
なぜ、ここに日中友好の公園があるのか?「中日両国人民世世代代友好下去」と書かれた碑のルーツを知る市民は少ない。
一昨日。我社の創業者の一人で、親父殿亡き後、指導を受けた方から、謹呈(米寿の巻)「生かされて 感謝の極み 永らえては 斬魏の至り」との一文を添えて「大正生れの体験秘話集」を頂いた。
その秘話には、親父殿と同じ大正11年生れで学徒出陣した軍隊体験と実兄を南方戦線で亡くし、慰霊に訪れた鎮魂や、陸軍の歩兵連隊で最小に覚える歌「歩兵の本領」が戦後は「聞け万国の労働者」と歌詞を変えた話などが語られている。
中でも圧巻は、中国語に堪能な氏が、ライフワークとして日中友好に心血を注いだ心温まる体験が経験が綴られている。その一話「不戦碑物語」は岐阜人ならば、記憶留めねばならない。
昭和37年、中国毛沢東、周恩来の時代。岐阜市では日中友好を目的とした訪中団(団長・山田丈夫・岐阜新聞社長)が組織され、その団長秘書兼通訳と報道特派員として参加。
その折に岐阜市と中国・杭州市は姉妹都市を結ぶ礎を築き、碑文を交換し、友好平和を誓った。松尾吾策岐阜市長は「日中不再戦」を揮ごうし。王子達杭州市長が岐阜市の日中友好公園の碑に刻まれている「中日両国人民世世代代友好下去」を。
国交もない時代、郷土の先人たちは、地方から両国民の恒久平和を願う気概を示し、具体的に行動した。その秘話を興味深く拝読した。(実は書けないもっと面白い話も載っているのだが)
街の片隅に佇む小さな公園。その公園設置の秘話に触れ、戦前、戦中、戦後を生き抜き、米寿を迎えた大正生れの生き様の一端を学ばせてもらった。
しかし、まだ、まだ、語り継がねば成らない、物語があるハズ。
この街を愛する一人として、「秘話」その2が上梓されるのが楽しみだ。
米寿、心よりお祝い申し上げます。
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追伸
杭州市西湖畔「柳浪聞鶯」公園には、「日中不再戦」の碑があるそうです。
是非、親父殿と同級の氏と一緒に、足を運んでみたいと思っています。
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